2020-12-08

主語の使い方でそいつが変われるやつかわかる仮説

要は自分の考えをちっとも改められない、自分客観視できない、という人の話を聞いていると、自分主語にするとき絶対受動態、他人主語にするとき絶対能動態を使うというのをなんとなく見つけた。

駅で男にいきなりぶつかられた、というのか、駅で男をかわしきれずにぶつかってしまった、というのか

というのはかなり響きが違う。前者は「悪いのは男、自分が気をつけること、変わることなんか一切ない」というニュアンスを持つ。後者は「私にも落ち度はある、改善点はあるな」というニュアンスを持つ。

まぁ、前者については「自分にも避ける責任があるよね」という観点を欠いているのだから、もう手遅れかもしれない。

駅でいくら避けてもぶつかりに来る男がいるというポイント反論をしてくるやつは変われないやつな。

論点おかしくなったが、結局「自分はxxされた」という言葉には、当然それも真実だが、この発言の裏には「自分には落ち度はない、自分が変わる必要はない、やってきたあいつが変わるべきだ」というニュアンスがある。

以前「私は買われた」という売春をした少女の本があったが、「私は売ったの間違いだろ」とか言うのもおかしい。「xxであったがゆえに私は買われた」というのが正しい言い方だ。もうちょっと言うならば「xxであったがゆえに私は売らざるを得なかった」が最も正しい言い方だと思う。

「私は買われた」というのに無批判で全面同意できる人というのは、つまるところその少女彼女を取り巻く一切になん関心もないことを態度で示しており、問題解決なんかどうでもいいとも言える。この少女被害者!みんな全面的に同情スべき!と言いつつこ少女売春をするに至った原因に全く興味がないのだ。

というように受動態が大好きな人というのはやはりなにか問題根本を見ることができない人、ひいては変われない人なんではないか、というように思った。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん