日常とは葛藤であり、葛藤から拡張してゆくことでやっと日常が保てる。
走り続けてやっと後退しなくなる、というたとえではしっくり来なかった。
こうした見えない日常の膜というか外圧というか、そんなものを両手で必死に押しきれない人が鬱にかかったりする。
ところが鬱病者を見ると、人は大抵自身が日常を両手で押していることを義務と感じてしまう。
結果鬱は甘えだなんて言説が出てくる。恒常性を保つには運動が必要で、運動には心が必要だ。
心の動きが弱くなると膜が圧力を増してくる。
多分鬱の人はこういう心象を内面的に抱えているし、外からも言われている。
内面の風船は否応なく膨張し、外面の膜で呼吸もできなくなる。
歩くことは基本誰にでもできるが、年をとるとその動作が特別だったことに気づく。
つまり足は日常という恒常性を押し留めながら前進してくれていた。
しかし足は突然動かなくなる。内蔵も老廃物を処理しきれなくなり、体臭がきつくなる。
老人化が悪だという人はいないし、病気を悪だという人はいない。
しかし心の病気にかかって恒常性を失った人が病気であると認識される日は遠い。
増田は現在鬱ではないものの、恒常性と日常の闘いについてなんとなく実感が湧いたので記しておく。
多分感覚ごと伝わらない。
俺はダメなやつだけど、ちょっとずつまともになってきたから、少しずつ頑張りたい。