そのことを思えば、生来の名前とその人の「体」、すなわち人格は何の関係性も無いことがわかる。
すると、「名は体を表す」での「名」は、その人の人格が明確になった後に名付けられる名称、すなわち、「あだ名」のようなものだと考えるのが自然な解釈だろう。
そうだとすれば、「名は体を表す」という言葉は、「あだ名」はその人の性格を表している、といった意味合いになるはずだ。
これは、「名」を生来の名前だと解釈するよりも、ずっと納得しやすい理解の仕方だろう。
しかしながら、その人の性格が「あだ名」を決める、すなわち、「体が名を表す」の方が正しい因果関係にも関わらず、格言化されているのは「名は体を表す」である。
ならば、重要なのはここからだが、「名は体を表す」という言葉は、「あだ名」の付け方によって、その相手の性格をオーバーライドできる可能性を示しているのではないか。
もちろん、「あだ名」の付け方によって、その相手の性格が本当に変わることは少ないだろう。
例えば、相手のことを「馬鹿」と呼んで、本当に馬鹿になる相手は居ないだろう。
しかし、確実にオーバーライドできるものがある。それは、「あだ名」を付けた側の自己認識である。
例えば、相手のことを「馬鹿」と呼んだ人間は、確実に相手のことを馬鹿にする。
ちなみに、これは「嫌な上司」など嫌な相手が居るときにも応用できる。その相手のことを、陰で「○○たん」とか「○○りん」とか、かわいい「あだ名」で呼ぶのである。
そうすると、相手が変わらなくても自己認識が変わってくる。嫌な奴に好ましい別名称を与えることで、あなたの認識も好ましい場所へとリンクされるのだ。
以上をまとめると、「名は体を現す」という言葉の本当の意味合いは、その相手の人格を名前付けによってオーバーライドできるということなんだと思う。
これが、タイトルに書いた「『名』で『体』を逆定義すればいい」という発想だ。自己にとって好ましい「あだ名」を付けることにより、その相手への認識を改めることができるのだ。
もっと言い換えるなら、「あだ名」にもフレーミング効果がある、というのが「名は体を表す」の本当の意味合いであり、その格言が示したいのは、「あだ名」は自己認識を変えて人間関係を改善するのに役立つだろう、ということだと思うのだ。
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名前負け