人は苦しい時、正しくあることで救われようとする。これは自分が正しければ悪いことは起こらないはずと言う直感によるものだ。この直感を公正世界仮説と呼んだりもする。
しかし、正しさは人を救わない。なぜなら公正世界仮説は間違っていて、世界というのは理不尽だからだ。その人の正しさはその人の幸せを保証しないからだ。
正しさが人を救う例外が一つだけある。それは宗教だ。なぜ宗教なら正しさで人を救えるのかというと、その宗教の世界観をもって公正世界仮説を無理やり構築しているからだ。例えば、悪いことをすると地獄に落ち、正しく生きれば天国に行ける、などという世界観で。
この宗教の世界観を信じるのならば公正世界仮説は仮説ではなくなる。正しく生きれば良いことに報われるという、現実とは違うことが真実となる。
余談だが、ポリティカルコレクトネスも宗教的に信じている人々がいるように見える。政治的に正しく生きれば人生が報われると考えている人はやはり公正世界仮説を信じており、それは現実とは違う宗教に他ならない。
そして、公正世界仮説が間違っているという理由のほかに、正しさが人を救わない理由がある。
それは、正しさというのは正しくないものへの糾弾を内包しているからだ。自分だけが正しければいいという態度を取り続けれられる人は仙人みたいなものだ。普通の人は自分が正しいという確信があればあるほど正しくない人への糾弾をし始める。宗教が時に排他的になるのもこれが理由だ。だが、他者を糾弾することがその人を救うことにつながるかというと、これもまた否である。
そして、その糾弾は時に自分にも牙を剥く。間違えない人は居ないというのに正しくあることを自らのアイデンティティとしてしまうと、間違えたときに自分を糾弾してしまう。自らを裁判にかけるというのは非常に苦しいものだ。
だからやはり、正しさは人を救わないのだ。
anond:20200227134525 ところがその話にはまだ続きがあって、人間は社会性動物なのだ。 社会性動物というのは、社会・群れを形成することで種としての生存を目指す。 群れというのはど...
せやで。しかーしパレードの法則、働き蟻の法則ってのがあってな 根本的に働く気がない協力し合う気ながいヤツらが存在するんやなぁ