東京グールという作品がある。主人公はグールと人間の中間の存在になってしまい、自分は何者であるかに悩むんだ。
メンター的存在の人に、「君はグールであり、人間でもあれる存在なんだよ」と言われる。そして主人公は両方を理解しよう、両方になろうとと苦しむ。
本来的に、二つの属性を持つという事は、その益も、害もどちらも受け入れるという事だ。いいとこ取りは有り得ない。
在日がいい例だろう。彼らは日本のサービスを受けながら、自分らを被害者として主張する。
だが彼らはすでに日本のサービスを利用し、同時に加害者性も負っているのである。本来なら被害者性を主張はすれども、強調はできないはずだ。
彼らが被害者であるというのなら、同時に「被害者」に対して彼らも頭を下げるべきなのだ。
二つの属性を持つという事は、その二つの属性の益も不利益も全て背負うという意味だ。
フェミニストは時折日本という国自体を攻撃するが、フェミニストも同時に日本の一員であり、実際はどうであれ、完全な被害者にはなり得ない。
反トランプのアメリカ人だからといってベトナムでの虐殺が正当化されないのと同じだ。
大島薫、少年ブレンダ、オカマ系インフルエンサーもそうだ。二つの属性を背負うということの意味を、加害者性から逃げるための隠れ蓑にしている。
都合のいい時だけ女性になり、ある時は(概念上の)元男として説教する。
その点、マツコデラックスは二つの属性というものを常に意識している。
男に物申す時も、女に物申す時も、加害者側の視点で叩いている。自分を悪役に立って他人を叩くから見てる方もそれほど不快に感じないのだ。
男に物申す時も、女に物申す時も、加害者側の視点で叩いている。自分を悪役に立って他人を叩くから見てる方もそれほど不快に感じないのだ。 参考例が欲しい。 確かにマツコを不快...
重度障害者施設の入所者も、日本人である以上は戦前の過ちについて韓国に謝罪しなければならないのだろうか。
から先に言えばYES