LGBTへの理解を!と叫ぶ人達が決まって言う「LGBTは実は1クラスに●人もいるんです!」の後にはこれまたお約束に「貴方に関係ない話ではありません」と「だから普通のことなんです」
そもそもLGBTの根幹は「性の多様性を認めよう」である筈だ。多様性とは、「みんな違ってみんないい」これに尽きる。
だが「沢山いる」「変じゃない」という主張はこれらと相容れない。違うなら違うでよいのが多様性のはずだ。沢山いようがいなかろうが、変だろうが普通だろうが認めるのが多様性だ。
LGBTを身近に感じさせ、理解させて彼らが得ようとしているのは「多様性」なんかじゃなくて「新しい普通」なのではなかろうか。 LGBTが浸透した社会、LGBTが「普通」の社会では、ゲイだからといって、「普通」の境界線から閉め出されることはない。
だが、新しい普通の枠組みのなかで必ず誰かがあぶれる。違う色のはみ出し者は虹色の筈の社会で異端として苦しむだろう。
赤が普通の社会に青と黄色が新しい普通として追加されたって本質は変わりはしない。
存在を知られないなければ理解を得られない一面はあるだろうから、認知活動をするのは良いと思う。しかしその先の目指す道はゲイは普通でなくてもトランスジェンダーは理解されなくとも、それでも認める社会であるべきだ。
ゲイとカミングアウトした子がいじめられた、ゲイはおかしくないと理解させなきゃ!
ではなく
違うから、理解できないからといって人をいじめることを叱るべきだ。
普通でなくても許せ。
変だとしてもいじめるな。
というのがあるべき姿だと思う。
普通だと思ってほしい。
変だと思われたくない。
というのは他者への過度な願望だし只の我儘にすぎない。想うのは勝手だが人に押し付けることではない。
そもそもLGBT という名前・分類自体がロリコンなどを排除した、多様性のないものだ
というか別にLGBTだけが殊更に敵視されてるから差別されるというわけじゃなくて、 「変わったもの、人と違うものはそれだけで疎外されやすい」という原則がまずあって、LGBT差別とい...