ムラ社会に対する批判が成り立つのはその社会がマイノリティに対して排外的、たとえば在日外国人や移民、難民などを排除しようとするときのみである。
一方、オタクの社会は今日いかにオタクが増えたように見えるからといって変わらずマイノリティの社会には変わりない。
実際にオタクは「オタク」と(今もなお蔑称を用いて)括られる存在である。
翻って、真木よう子は曲がりなりにも華々しい芸能界の住人である。むしろ彼女こそがマジョリティ側の人間であり、マイノリティ側への脅威になりうる存在なのだ。
先ほどの在日外国人や移民、難民などと類推して当てはめられる存在ではなく、むしろ「未開地」を開拓しに来た先進国の住人に近しい。
よってこの論理は的を外している。
・普段表現の自由を主張するオタクが表現の自由を抑圧するのは矛盾している
オタクが戦っているのは法的な表現の抑圧である。もし彼らがその戦いに負けたら彼らは表現の手段を失う。
一方、真木よう子は法的には依然として表現の自由が与えられている。彼女の芸能界におけるポジションがいかなるものかはよくわからないが、コミケに出せないからと言っても彼女にはまだ写真集を出すチャンスはあるだろう。
もちろんだからと言って真木よう子がコミケに参加すべきでなかった、という話にはならないが、この批判が当たっていないことは疑いえない。