2016-06-06

この数ヶ月で、

何十年と確執を繰り返してきた兄弟と、

何十年もぶつかり合いながら添い続けてきた夫婦の、

相手への憤懣を聞く機会が重なった。


二度とも感じたことは、

「どちらの自分正当化に躍起になっている」ために、

相手の心情へ思いが至っていない点だった。


両者とも、

目の前にある問題解決拒否するかのように

際限なく過去確執愚痴呪詛をはき続け、

このままでは(延々と愚痴を聞かされているこちらを含め)

誰も救われない話になっているのは明白だった。

そこで、第三者として、

少しでも憎しみの軽減に寄与できれば、程度のつもりで、

相手感情ヒストリー/ストーリー想像して解釈をしてみたところ、

両者ともまったく同じ答えが返ってきた。


「こっちが悪いというのか?お前はそうやってすぐ向こうの味方をする」。


何十年も煮え湯を飲まされ続けた当事者

軽々しく解釈披露したこちらの落ち度は認める。

しかし、当の本人たちの逆上は、つまり

痛いところを付いていたということでもあろう。


相手思考を、

売り言葉に買い言葉で出てきたレスポンスで見るのではなく、

長い付き合いの末に見えてくるその人の文脈に乗せて読み解く、

いわば文学的相手を読むことで

罪に対する罰とは別の次元で心情的に相手を赦す、

まり怒れども恨まず、みたいな、

そういうことができなくなるのだな。


本人たちが歳をとり、

マンが利かなくなってきていることも原因のひとつかもしれない。

あるいは、かつてはそれも試みた上で、

それでも続く長すぎる付き合いと

その間に解消されずに積もり積もった澱が

赦しを不可能にするのかもしれない。

そして、それが人情というものの一面なのかもしれない。


とすれば、人生を折り返そうという俺もまた、

彼らと同じ轍をいつか踏むことになるのだろうか。


この人はどうしてこういうことをするのだろう。

この人はどうしてこういうことを言うのだろう。


せめて自分感性がまともな間くらいは、

文学的相手を読み、心情に近づこうとする努力

忘れずに生きていきたいなと思う。

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