2016-03-24

わかってわかってわかってわかって

センチメンタル感傷さえも消費されてゆく。SNSに書き込むと「いいね」がついてその数が評価になる(と錯覚してしまう。実際のところは街で配られてるティッシュを受け取るか受け取らないかくらいの差)。さみしいも死にたいコンテンツ。消費されたところでお金がもらえるわけでもない。

下品自意識承認欲求けが肥大化して現実世界ますます生きづらくなる。

学校職場ではなるべく人に踏み込まないようにして、自分にも踏み込ませない、絶対に。

そうしている間にまわりの人はうまく”踏み込ませても損害の少ない部分”だけを見極めて提示し、『深い人間関係』を築いている風。

そうやって真似すればいいのに、傷つくのが、裏切られるのが、怖いので、そんなことはできないし今までもやってこなかったので急にできるようになるわけがない。自分の実力と伴わない承認欲求のやり場はない。

わかってほしいとか受け入れてほしいとか、人間関係で1番大事にしているのはそういうい欲求だけでそれらを満たしてくれる相手なら誰だって別にいい。自分をわかってくれる人が好きだし友達だし恋人。わかってくれないのならいらない。

どうして相手わたしをわかってくれないのかなんて考えたことがない。

わたしをわかってくれないひとは、わたしがわかろうとしなかったひと。

それが今まで一度も考えようとしなかった問いの答え。

人の気持ちや考えがわかるとかそんなのほとんど幻想なのにね。それなのにわかってほしい。わたしわたしをわかってほしい。

ただ、そう思っているのは”踏み込ませても損害の少ない部分だけを見極めて提示し、『深い人間関係』を築いている風”の人たちだって同じ。

誰かにわかってもらえないことより誰かをわからないことのほうがずっとさみしいということにはやく気づかなければならない。

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