ルサンチマンの病理というのは、資本主義社会がもたらした根の深い問題なのだろうか…
と考えて見たのだけど、古くからはアダムとカインの兄弟にも起こっていたので、生物の本能に埋め込まれているのだろう。度を越えたルサンチマンは、自己保存どころか自分自身を滅ぼしてしまう。
ルサンチマンの感情はどこまでも続く。もし借りに、欲しいものが手に入ってしまったとする。伴侶、家、車、子供、社会的地位、名誉、財産、これらを全て手にいれても、目の前に、自分より何かを持っている人が現れた時、また、ルサンチマンの感情が沸き起こってしまうのだ。埋めることのできない葛藤はどこから来ているのか?
既に、地位と財産がある場合は、あと持っていないものがあるとすると、「本当の自分の使命」だろう。本当の自分の使命は、おそらく、持つことができれば、人間が最も幸福に感じるものだろう。
しかし厄介なことに、この本当の使命というものは、他の地位財産伴侶などとは方向が違うところに存在するのだ。それらの次に手に入るものではないのだ。自己の快楽とは異なるところに存在している。
名誉、財産、家族、社会的地位、を揃えてから、その次に、自分の使命を手に入れようと考える場合もあるかもしれない。そして、それも有りかもしれない。しかし、それだけの物を手に入れるまでには時間がかかり、自分の使命を生きようとすると時間切れになってしまう。
使命に生きるというのは、本当に難しいことだと感じる。また、もし手にいれても、重すぎる重圧に耐えられなくてはならない。
使命を手に入れるのは本当に難しいことなので、もし、ルサンチマンが起きてしまう時の対処法を考えてみた。
2種類があると思う。
既に与えられているという事実を発見することが一つ。つまり欠損していると感じる時に、マイナスを埋める様に学びがもたらされるということ。