「人間」と「ロボット」をそれぞれ「判断の基準を内側(=自分)におく」か「判断の基準を外側(=第三者)におく」かだとすると。
他ルートの正義の味方という理想を抱く士郎は分かりやすく「その他大勢の味方」だから歪みに気がつきやすいけど。
桜だけの味方、だって結局判断の基準が桜という自分ではない他人にあることにはかわりがないわけで。
そのたったひとつの判断基準が士郎の死を望んでいないから死にたくないってだけちゃうんかと。
自分じゃないとどうにもできないから生きないといけないだけっていうならそれはやっぱり自分の望みとは違うよなあ。
自分じゃなくても幸せにはなれるだろうけどそれでもこの俺が幸せにしたいんだ、っていうのが人間じゃないかね。
漠然とした群体である正義の味方という観念から逃れて判断基準が一本に絞られ、その後穏やかな時間をすごすことで。
極端な価値観にさらされるよりは今後ゆっくりでも人間に戻っていく可能性は他よりよほど高いと思うし。
幸せになることができたんだからめでたいことだし、幸せな終わり方だとは思うけどもやっぱりEDの選択の時点では人間ではない。
HFはどうにもその俺が俺が感を感じにくいと思ったけどアニメをやってる今なら別の感想も思い浮かぶだろうか。
Vitaは持ってないからスマホのやつが出たら買ってみようか。
俺が俺が感っていうならむしろ凛ルートのやり取りの方がよく感じたんだけどね。
それこそ相応しい相手、とまで言っていいかは分からないけど魅力的なキャラクターが他にもいる中で。
遠坂はやらないなんて独占欲を発揮してみたり。
凛という個人とのあれこれなんて正義の味方としては不必要なものでしかなく、ロボットの外付け思考回路にはないもの。
だからこそ士郎であるためには自己を呼び覚ます仕掛けとして凛が必要だし。
凛がいれば士郎という自己が消えないので赤い弓兵にならないんだと思うんだけど。
俺が遠坂と一緒じゃないと駄目なんだ、なんてエゴの最たる物。
自分じゃなくてもいいんだけど、それでも自分が一緒にいたいんだから。
正義の味方というものに対する答えとしてUBWの裏でありグランドルートでもあるHFだけど、HFは士郎が人になる物語じゃない。