2015-01-21

ソーシャルゲーム二次創作ソーシャルゲーム物語性について

 プレイしていないソーシャルゲーム二次創作を行っていたところ、非プレイヤーには二次創作資格がないと云われカチンと来たので書く。

 スタティックなゲームにはどんな些細なものであっても名詞には最大の注意を払っていてほしい。

 なぜならプレイヤーが見ているのはゲーム画面ではなく、その向こうにある物語なのだから。その起因や発達を阻害する名詞プレイ体験に致命的なダメージを与える。

 スタティックなゲームプレイヤーにとってゲームはよりしろ機能の側面を持ち、プレイヤーひとつひとつアクションには意味を持たせたがる。選択行為への意味総体ゲーム体験となり、ゲーム体験というプレイヤー共通の基盤からプレイヤーひとりひとりに固有の物語が発生する。

 ところで、ある名詞が致命的なものである場合プレイヤーに可能なのは以下の三つである

(1)名詞を視界に入ったとしても無視する

(2)名詞を視界に入れないようにする

(3)ゲームプレイしない

 (1)はやがて意味総体を混濁させ蝕む。(2)は有り体に言えば縛りプレイである 。最も険しい。(3)はお手軽だ。

 いったん、ゲームのよりしろとしての機能に着目すると、必要機能ゲーム性ではなくむしろよりしろだったとわかる。

 であれば、(3)は最もお手軽であるだけでなく、最も経済的選択肢だったと明らかになる。合理性バンザイ。我らの経済性に喝采を。

 しかしながら、(3)には決定的な瑕疵があり、プレイヤー(ですらない誰か)は無限孤独である。ひとりで無体験から物語幻視し、幻視し続けなければならない。共感すべき体験を持たず、基盤を持たず、回路を持たない。原理的に共感を拒むことになる選択肢であり、孤独選択肢だ。

 それでも私は誰かとよろこびを分かち合いたかったのだ。

 手を握り合い、肯き合いたかったのだ。

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