最近気づいた事だが、頭の中から文語体を生成する機能が無くなった。
硬い表現を分かりやすく伝えようとすると、必ず同じような文体(口語体)で生成してしまう。
かつては表現した内容と表現の形式が一致しているということに敏感だった。
表現の形式、つまり文体、が持つ機能は理解を立ち止まらせることで、読書という受動的行為を思索に転じさせる抵抗の役割であった。
近年出ている本やネットの文章でこの抵抗を感じるのは、主張が自分と相容れないか、エキセントリックな内容か、である。いずれにしても、分かりにくいから頭を使うのではなく、分かりたくないから、頭の中で粗を探してしまう。
そういう事を繰り返したからなのか、自分の中で、内容を構造に落とし込む、という思考形態が取れなくなった。
現在の生活の中で、湯水のように文章が溢れているが、それを読む行為は以前より知的な行為でなくなった。ある文を読む事は知識を積むことであり、内容以上にはモノの見方を変えない行為になっていないか。以前には、ある文を読むとモノの見方が変わったものであったはずなのだ。
だが、今の自分はどうだ。内容を伝えようとした途端に説得させ相手に理解させようとしてしまう。相手の思考を待てないのである。
古くから残っている本の内容をわかりやすくしてしまえば、誰でも簡単に理解できるのである。しかし、古くから残っている本の著者の思考形態は原著によってしか手に入れることが出来ない。