競争において勝者と敗者が生まれるのは必然であることも、現代社会の中に競争の形を取るものが散見される事を否定するつもりはない。
誰かを貶めてのし上がるものがいて、反対に奪われ続けた事で人生を台無しにするものがいる事も否定する気などない。
だがその前者が勝者だとはとても思えないし、後者が敗者だとも考えられない。
また同様に、生まれつき恵まれ生涯に渡り恵まれ続けたものとその反対に居るものを勝者・敗者と分けるのも相応しとは思えない。
では何故、世の人は己や他者の人生を勝ち負けで区切ろうとしてしまうのか。
競争に勝ち続けた者は自然と人生の良い側に進みやすく、反対に負け続けた者は悪い側に進みやすい。
知能の程度を下げれば一見正しそうに見えるが、知能の程度を標準レベルに戻せばすぐに誤りであると分かる。
だが人はこんな簡単な事になぜか騙されてしまう。
何故なら、多くの者が同じ間違えをし続けているからだ。
人間は暗示に対して脆い。
レミングスは集団であるからこそ崖に飛び降り、帝国海軍は一億総火の玉であるが故に神風と化す。
一匹のレミングスは崖の危険性を知り、1人の日本人は勝機の無さを理解しているが集団となった時それは失われる。
だが、もしも正しくなくてもそれが人を幸福にするのならば辞める必要はない。
だがこの信仰は人を救わない。
邪教である。
簡単なことだ。
勝者と敗者に別れる時、それは戦である。
そして戦において、そこには敵と味方が生まれる。
そして勝者と敗者の概念が個々人の判断に委ねられる時、回りにいる大部分が敵となるのだ。
あいつは俺よりも金があるから敵、あいつは俺よりもブサイクだから敵。
下手をすれば回りの全てが敵に変わる。
そしてその敵の群れに勝つためにその場その場の勝利ばかりを目指す。
他者を敗者と思い人に辛く与えればそれは真の敵になる。
己を敗者と思い人にへつらえば誰もが真の敵になる。
そうして回りの全てが本当の敵になるのだ。