2015-06-18

とある被害者の手記

いじめ世界には基本、「許す」は存在しないんじゃないか、と最近思う。

私は昔、いじめられっこだった。たぶん、自覚はしていなかったけれども、そう認識していた人は多かったように思う。

教室空気を読むのがあまり上手でない、というよりも、クラスの中で自分がどのポジションいるかを考えるのが苦手だった。嫌いだったのだ。誰に言い含められたわけでもないのに特定ポジションにじっとしているのが。

こんな性質を、今でいうスクールカースト概念に支配された者は煙たく思っていたに違いない。

けれども、実は今思い返しても、ポジション保持派の面子がまったく思い当たらないのだ。当時もたぶん悩んでいたはずなのに、ただの一度もたぶん、この方面で悩んだことがない。

自分肥満児で吹き出物だらけのキモい見た目であったことが理由だろうとしか思っていなかった。

まっこと、頭が悪くておめでたいである

でも、小学校のみっともない思い出を、時々初対面の人にチラチラと当て擦りされるようになって、あー、彼らは何十年も経って、当時石投げつけられてたいじめられっこにまた攻撃加えてんだ、許すって概念ないんだな、と思いあたった。

彼らの恨みや憎しみの理由はよく分からないが、結局彼らの脳内で決めているスペックランキング自分がいくつか違反していて、それが根底にあるとしたら、これはもう、どうしていいか分からないのである

キモくてバカ不細工な私が生きて、彼らよりもまともな生活を送っているだけで腹が立つのかもしれないし、偉そうな趣味を好んだりするだけで生意気なやつと思うのかもしれない。

まあ私のガキの頃の情報ネットに悪意込めて流したやつは、要注意人物であると同時に、結構現在生活荒れてんだろうな、と推測することにする。

たぶんこの推測は正しい。

まあ、彼らが悔しがる「私の幸福」とやらがそんなにたいしたものでないことを彼らが気づいているかどうかは、私は分からないのがなんなのであるが。

一度この辺は書いておこうと思ったので増田で。

どうせお節介たちにより、当人たちにはルートを逆にたどって伝わることだと思う。

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