はてなキーワード: 格差社会とは
政治に関する情報って、マスメディアとかウェブとかにすごく沢山あるんだけど、何が本当に信頼できる情報なのか俺には全くわからないんです。
朝日クオリティとか、産経はこれだからとかみんな言ったりしてるけど、俺はそれを論じるのに必要な情報を知らない。
例えばマスコミをマスゴミとか言ってる人って、その根拠としている信頼できる情報ってどこから仕入れてるの?
マスコミからなんてことは無いよね。ウェブから?だとしたらウェブのその情報源はどこなんだろう。やっぱりマスコミだったりして?
俺は政治に関する信頼できる情報源ってのを、ものすごく知りたいんです。
マスメディアの情報を信頼できない、ウェブの情報も信頼できない、さらに国の言うことも信用できないって言うんなら、どこにあるどんな情報を信頼すればいいのかもう俺にはさっぱりなんです。
例えば、何が信頼できる情報なのかがわからないから、自民か民主かって聞かれても答えようがない。
格差社会っていうけどそれも正直ピンとこない。
いや、何となく働いても暮らしていけない人が増えているってマスコミやウェブで聞くけど、その増えていることを裏付ける信頼できる情報がどこにあるのかがわからない。
俺の身の回りにはそういう人いないし、テレビで特番やってたとして、そのテレビの情報を信頼していいのかわかんない。
仮に増えていたとして、その原因はこれ!って言えるだけの信頼できる情報がどこにあるのかがわからない。いやそんな単純な話じゃないんだろうけど。
でも聞こえてくるのは例えば小泉政権のツケってのが多いかな?
ほんとのほんとに小泉政権のせいだったの?その根拠となる信頼できる情報をすごく知りたい。
俺は政治に絶望しているわけでもないし、期待していないってわけでもないよ。
むしろ支持できる政党を持ちたいなって思ってる。
でも、俺はそれを判断するに値する情報を持っていないんです。
自分で勉強しろ!って言われてもその時点で偏っちゃいそうな気がして不安だし。
人に聞くってのもそれもやっぱり流されちゃいそうだし。
だからそこの政治を語る人、誰でもいいから教えて欲しい。
あなたのその政治に関する信頼できる情報源というのを是非教えてください。
俺もいっぺんでいいから政治を語ってみたいんです。
HERO「ん、ここはどこだ?」
Mr.X「うん、申し訳ないがそれは言えない。」
HERO「なんだと?いったい何のために俺をここに連れてきた!」
Mr.X「うーん、それも言えない。」
HERO「くそ!忌々しいやつめ、俺をこの部屋から出せ。」
Mr.X「じゃあテラスに出よう。コーヒーを持ってこさせる。」
HERO「…何を企んでいるんだ。」
Mr.X「そうだな、一般的な話なんだが、最近グローバル化でね」
HERO「…何の話だ。」
Mr.X「だから世間話だよ、グローバル化で業務進捗の手法も標準化が進んでるんだ。」
HERO「はあ?」
Mr.X「君のところはいいよ、個人事業だから。どちらかというと手厚く保護される立場だ。」
HERO「はあ。」
Mr.X「だから一定規模以上の事業所は一定のルールの元に仕事をしないといけない。」
HERO「…。」
Mr.X「で、善悪や事業を問わず取引先と秘密保持契約ってのを結ぶんだ。あ、コーヒー飲んで。」
HERO「あ、いただきます。」
Mr.X「ところが法務部は頭が固いから必要以上に条件を盛り込む。」
HERO「へー。」
Mr.X「まあお互い様だから、結局ガチガチの秘密保持契約になる。念の為にこれ一般論ね。」
HERO「そうなんですか。」
Mr.X「そんなわけでこれからは何をするとか野望とか宣言できそうにないんだよ。」
HERO「ふーん、ってエエエエ!?」
Mr.X「ウチからは何のリリースも出せないからそちらで調べていただいて。」
HERO「調べるって無理っすよ、何から調べるの?」
Mr.X「だからそういうの言っちゃ駄目なんだよ。他にも出資者利益の保護とかあるしさ。」
HERO「じゃあ俺もう要らないって最終通告?」
HERO「これが格差社会?資本の大きいものばかり優遇されて。」
Mr.X「ふう、あのね、手続きや制限が増えたのはウチでしょ?君が今まで楽しすぎだったんだよ。」
HERO「ウウウ、訴えてやる!覚えてろ!」
http://anond.hatelabo.jp/20070829100649の続き。
何だかえらい数のブックマークが付いていて驚いた。色々なコメントを頂いたが、どれも面白かった。それを読みながら考えたことがあるので、蛇足だろうけど少し書いてみる。
もし仮に、私が高校生のときに自分自身の文章を読んだとして、今の自分よりも賢い人生を送れる自信は無い。むしろ、軽く聞き流して忘れてしまう可能性のほうが高いように思う。自分がハーバード?MIT?寝言にしたって恥ずかしいくらい現実味の無い話だ。別世間の苦労話を聞かされたところで、せいぜい世の中広いのねと思うくらいのものだろう。
実のところ、似たような話をしたのはこれが初めてではない。大学生に話したことも何度かある。留学を既に考えている学生には大いにウケたが、そうでない学生からの反応は薄かった。特に複数の学生に同時に話した時には大概うまくいかなかった。誰かが「すごいけど俺には無理っすよ」と言うと、あっという間にその空気がグループ全体に伝播していく。「俺たちには無理ですよ」という言葉を使った奴すらいた。恐らく、仲間からの賛同の言葉を待っている。多分無意識のうちに。それは仲間関係の確認であると同時に、自分のいる階級の自己修復でもある。それが社会に縛られると言うことでもある。このセリフが出たらもう手遅れだ。彼らはもう意識のなかでこちらの話を「あり得べき現実として想像すべくも無い別世界のエピソード」として切り離してしまっている。何を話しても、それはエンターテインメント以上にはならない。それでも情報が頭の片隅に残る分だけ、まだマシだろうと思ってしゃべるのだが。
前のエントリーで、先生の言葉で普通科から国立大に進んだ話にTBを送った。これは半ば確信を持って言うのだが、この先生は他にも何人もの生徒に大学進学を勧め、そしてその大半からあっさりと断られていると思う。「大学に行ってもしょうがない」「息子をそんなところに行かせても遊びほうけるだけだから」「別に俺も大学でやりたいことなんてねーし」。上では友人の間で行われた「階級の再確認」が、ここでは親子の間で行われていく。大学に行くと言うことを想像できないのだからしょうがない。後はその「大学に行くなんてあり得ない」という気分を補強する言い訳を見つけてくるだけだ。この世の中、大学に行くメリットもデメリットも、情報は腐るほど供給されているが、もうデメリットの部分にしか目が行かなくなる。私が本屋で留学ガイドをあっさりとスルーしたのと何も変わらない。そういえば私も「留学なんて、暇と金があっておつむの弱い女子大生が語学留学に行ってるだけでしょ」とか思っていた。
結局、私が何がしかの想像力を身につけられたのは、就職して「留学なんて当たり前」と言う空気に触れてからだった。留学経験がある上司も後輩も、それが特に話題にならないほどたくさんいた。そして彼らはもちろんみな優秀だったが、目がふたつ、鼻の穴もふたつある普通の人間だったし、能力的にも絶望的な差があるとまでは感じなかった。私が留学の可能性というちっぽけな「想像力」を手に入れるためには、そんなイニシエーションが必要だった。(もちろん、そこまでのイニシエーションを必要としない人もたくさんいるのだろうが。そういう人は素直に尊敬する。)
世の中には社会が無数にあって、その中で人々は想像力を縛りあっている。仲の良い友達、子供思いの親、そんな全てが想像力を縛る。私にはそれこそ想像も付かないが、親が両方ノーベル賞を取っていたり、親が両方プロのアスリートだったりすれば、また別の方向に想像力は縛られていくだろう(それが幸せなことかどうかは知らない)。プロのピアニストとか、そういう縛りがないと辿り着けない世界だってある。その想像力の縛りが格差となって現れることは前回書いた(というか、この人が書いた)。だから、世の中には格差が無数に存在する。それに、この格差が上流から下流まできれいに並んでいるわけじゃない。ピアニストを親に持ち、4歳から英才教育を受けた子供に、もし天賦の才能が欠けていたとしたら、その子供は必ずしも幸せとはいえない。普通に受験していたら高給取りになれたかもしれないのに(その頃には、本人自身そういう生き方に興味を持たない育ち方をしているだろうが)。
そうして生まれる格差のほとんどは「社会問題」としては認知されない。イェールの学生がハーバードに対して感じた格差は救済の対象にはならないし、私の知った格差を救済してほしいなどと考えたことも無い。ブックマークのコメントにもあったが、救済の対象になる格差は低所得者との間に存在する格差だけだ。つまり、最近盛り上がっている議論は「格差」についての議論じゃない。皆が議論しているのは「貧困」だ(貧困を相対的なものと捉えるならば、これは「低所得者と中産階級間に存在する所得格差」と同義となるが)。ブックマークのコメントで「今の議論とは関係ない気がする」というコメントがいくつかあったが、これは私が「格差」という言葉を一般的な定義で使ったのに対し、多くの議論では貧困の同義語(より狭義の格差)として使っているからだ。
「それなら関係ない話にTBするな」と言われそうだが、それでも前のエントリーを書いたのは、想像力の縛りが格差を生む、というメカニズム自体は貧困の話にもそのまま使えると思ったからだ(貧困は格差の一種と考えるなら、当然そうなる。ただし、所得格差の一部は想像力とは関係なく発生するが)。貧乏人は合理的じゃないかもしれない、という記事をこの文脈で考えてみてもいい。それなら、貧困ではないけれど格差に直面して得た経験と自分なりの結論は、ある程度の普遍性を持っているかもしれない。そう考えたからあのエントリーを書いた。もちろん、救済の対象にはならない様々な格差(特に、留学に関する格差)に直面している人たちにも届けたかった。役に立つかどうかは分からない。それは個々の読み手に判断してもらいたい。
====================以下、想像力とは関係ない話============================
ブックマークに付いたコメントはどれも面白かったし、納得できるものも多かった。ただ、『個々人の人生のサバイバル術と社会問題をまぜるな』というコメントに賛同が多かったのは気になった。私は個々人の生き方は周りの社会の在り様にどうしても左右されてしまうと信じている。それは個々人のレベルではどうしようもない。だからその中でベストを尽くすしかないと書いた。だからそれを持って「混ぜている」と言われているのなら、そうですか、としか言えない(何が悪いのか分からない)。
どうもよく分からないので、同じ人の書いたエントリーを読むと、大上段の議論をしていない(否定しているかのように見える?)のが問題視されているようにも見える。だが、むしろ、議論の視点として『個々人の人生のサバイバル術と社会問題をまぜるな』というのは、私が他のいくつかのエントリーを見たときに感じたことでもある。
個々の例からは個々の含意しか得られない。私が先週下痢で苦しんでいたのは、私と診てもらったお医者さんにとっては問題だが、社会問題じゃない。でも、もし市内の住民の3割が同時に下痢になったら、それは社会問題だ。市役所が税金を使って防疫したり、隔離したり、予防措置をとったりすることになる。このふたつは全く次元が違う。私個人の下痢についての経験から「あの果物は日本人には合わないから止めておけ」とは言える。けど、市役所のワクチン投与プログラムの策定について私の下痢は何も語らない。だから、私個人の経験談によって成り立つ話は、「問題のある社会に住む個人の生き方」以外の結論にはたどり着かない。大上段の話には繋がりようが無い。
むしろ私は、個々の「不幸な話」を持ってきて、そこから「格差社会」を語ってしまうケースが多いことの方が気になる。もし社会を語るのであれば、少なくとも特定の「不幸な話」がその社会である程度の普遍性を持っていることを示すべきだ。それから、救済の対象が特定の個人なのか社会なのかもはっきりとさせた方がいい。格差社会を解消しようとする試みが、冒頭の特定の不幸な人の救済につながるとは限らないからだ。前の例でいけば、もし住民の3割が罹患したのがたちの悪い伝染病なら、市役所がすべきことは患者を一箇所に隔離してそれ以上の伝染を抑えることだ。その結果、隔離された患者は孤独のうちに死んでいくかもしれない。患者を救うことと社会を救うことは違う。
両方を同時に救うことが可能だと言う前提に立つのなら、個々の議論と社会の議論を混ぜてもかまわない。ただ、そう主張するなら、それなりに丁寧で具体的な説明が求められると思う。そうでないのなら、大上段の議論の根幹に経験談を持ってくるのは余りお勧めできない(あくまでも一例に過ぎないことを明示しないと議論がずれやすい。統計とかを使ったほうが議論としては分かりやすくなると思う)。
その辺りのフレームワークをおざなりにしたまま議論をしようとしても、「世の中にはかわいそうな人たちがいる」「この社会が間違ってる」と悲憤慷慨する以上には議論が進展しない気がする。
なんつか、天才が評価されないのは不遇だと思うけど、凡才の底上げみたいなもんまで当たり前に欲しがるのは欲張りでない?
おいおいおい、金持ちの思い通りだぞ、俺ら凡人がそんな考え方してたら。
現実問題どうしようもないからそういう風に思って諦める、と自分を慰める手段としての思考ならまだ分かるがそれを素で言っているとしたら、いよいよ格差社会キタコレって感じだな……こうやってもう、考え方自体から帰られていくのだろうな、最初から諦める方向へ。そしてますます上の奴らの思う通りになっていく。人間上昇する気持ちを捨てたら終わりだと思うぜ、マジで。それを欲張りだというなら凡人は奴隷になるしかない。そんな中世ヨーロッパのような世界がお好みかい、君は。基本的には誰しもが上昇する権利を持っているし最大限にそれを活かせる社会であるべき。もちろん滅茶苦茶理想のことだが。その理想と、実際問題なかなかそうなっていないというそのギャップに皆悩むわけだが、だからといって理想や建前の方を現実のところまで下げたら(その一瞬だけ安心するだけで)意味がない。(もっとも、下の民を奴隷化したい金持ちにとっては都合のよい考えだがね。そんな風に諦めていくと、上の奴らが得するだけだべ?)理想に届かないから理想を下げてちゃ意味がない。理想に届かないから苦しみ悩みつつも理想により近づける社会を目指すわけだろ。そこを届かないからって簡単に諦めて理想のハードル下げてちゃずっとそのままだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070830162852
昔と比べて、大家族が減ったからじゃないのかな。
たとえば兄弟同士や、祖父や祖母といった「1個の擬似社会」の中で、生きる術の学習や人生の理不尽を味わう事で、実社会に出る前にある程度のトレーニングが積めてた部分はある。
今は核家族、そして子供は保育園や幼稚園・大学生は上京・高齢者は老人ホームと、みんなバラバラ。
一番大切な「家族・近隣で助け合う」って部分が、どっかに飛んでる。
だからみんなで“苦しみを分かち合う”という体験ができなくなってるし、それが『孤独死』などの発生を引き起こしてる。
ほんの少しのプライバシーの獲得と引き換えに、大きな「人と人との助け合い=互助」というシステムが壊れてしまっているのが、先進国の共通して抱えている問題。
こういうことを書くと「偉そうに」と怒られるのかもしれないけど、ある意味TB先と同じ話だと思うので書いてみる。
http://anond.hatelabo.jp/20070826235204
私は親には相当程度恵まれていたクチで、別に裕福ではなかったけれども教育費に事欠くようなことはなかったし、親の勧めで進学校に進み、世間的には一流と呼ばれる大学に進んだ。自分自身その当時の境遇には満足していたし、親も喜んでくれたし、ささやかな優越感を楽しむことも出来た。
大学は楽しかったが、私は特に大学の成績には興味が無かった。先輩の話を聞いていても、大学の成績が良かったからといって、それこそ総代にでもならない限りは大したメリットは無さそうだったし、なにより自分が興味をもてない科目をちゃんと勉強するほどの忍耐力は子供の頃から全く無い。自分の好きな科目だけはすべて優でそろえてそれで満足していた。
卒業して就職し、何年か経つと、周囲の友人たちの一部が留学を始めた。それまで自分が海外で暮らすとか、海外で勉強するなどということは想像の遥か外側にあったので、そういうことが可能なのかということ自体に結構驚いた。その当時はそれ以上考えが進むことは無かったのだが、仕事をしていくとその分野で日本が決定的に立ち遅れていることが見えてくる。これはちゃんと勉強しておかないと10年後に必ず行き詰るなと思ってアメリカ留学の準備を始めたのだが、ここで壁にぶち当たった。
アメリカの大学院はどこも学部時代の(場合によっては高校も含めて)成績を重視する。GPAで3.3(優と良が半々で少し良が多いくらい)は足切ラインであって、それ以下だと申込書を送ることすら出来ない場合もある。もちろん、実際に一流校で合格を決めるにはそれよりも遥かに高い、例えば3.9(ほとんど全部優)とかが求められる。GPAなんてものは存在も知らなかった私の成績は3.3を割り込んでいた。
もうひとつ重要なのが推薦状。アメリカの大学で博士号を取り、出来れば本人も世界的な業績をあげている人に推薦状を書いてもらうことが望ましい。残念ながらそんな人はほとんどうちの大学にはいなかった。というか、そういう先生がごろごろしているのは東大他数えるほどしかない。しかも推薦状は3通必要。私は推薦状のネームバリューを考えるどころか、3人の推薦人を揃えるだけでも精一杯だった。
それでもなんとかアプリケーションを書き上げ、会社に隠れてTOEFLの勉強をし(この時期の平均睡眠時間はちょっとやばいことになっていた)、会社に迷惑はかけられないので合否の結果が出る前に辞める宣言をして代わりの人材を自力で調達し、やることはやって合否の結果を待った。結果はほぼ全滅に近かった。中堅大にぎりぎり引っかかっていたのは運が良かったとしか言いようが無いが、その当時はその幸運に感謝する気にはなれなかった。
その後アメリカに行ってから、自分がアプリケーションを出した大学のうち結構な数が「世間的には難易度がそこまで高くないと思われているが、募集人数が少なかったりして実は非常に入りにくい大学」であったことを知った。比較的まともな大学で日本人を積極的に受け入れるところがあったこともその後知った。東大からハーバードみたいなところに進む連中は、学部生のうちから留学準備をしている先輩を毎年見ているわけで、この辺りの情報は常識であったらしい。まぁ、ハーバードだMITだのに進む学生はそもそも私などとは比べ物にならないほど優秀だったので、特に腹も立たなかったのだが。それでも、うちの大学でもGPA3.8位あれば学部によっては超一流大を狙えた事を知ったときは少し堪えた。
中堅大のハンディキャップは就職活動に現れる。ハーバード、MIT、スタンフォード、イェール、そしてプリンストン(分野によってトップ5の大学は変わってくるが)。これらの大学にやってくる求人広告とうちの大学に来るそれとはかなり明確に差が出てくる。イェールの友人にそれを愚痴ったら、「ハーバードとMITは特別扱いなんだ」と愚痴られた。
もし日本の大学に入った直後にこの辺りの事情を知っていたら、そして自分にもそういった「とんでもなくエリートっぽい」キャリアパスがあり得るのだと想像できていたら、自分の人生はもう少し楽になっていたと思う。情報なら幾らでもあった。世の中には留学ガイドがあふれていたし、掲示板にだって色々なことが書いてあった(その頃はまだインターネットは無かったわけだが)。本屋でちょっと手に取っていれば必要な情報の半分くらいは入手できただろう。でもそうしなかった。そんなこと想像も出来なかったのだからしょうがない。親も友人も、海外にまで出て行く人間などいなかった。就職先で留学する人間に出会わなければ、今でも想像できないだろう。
結局、人間は社会に縛られる。それはしょうがない。誰かが悪意を持って情報を隠しているわけでもない。多分こちらから聞きに行けば喜んで教えてくれただろう。でも私はそうしなかった。想像力が足りなかった。想像力が足りない自分が「悪い」わけじゃない。ただ運が悪かっただけだ。それでも、そういう運の良し悪しも含めて自分の人生なわけで、それを嘆いても始まらない。架空の「すべてをコントロールするエリート」をでっち上げて彼らのせいにしたって虚しいだけだ。
結局私は海外で就職して必死に働いている。多分また無意識のうちに別の「社会」に縛られているのだと思う。もう少し世の中が見える人からは遠回りしているように見えるのかもしれない。でも自分に出来るのは手持ちの知識と能力と時間のなかでベストな選択をすることだけ。今の自分に満足できないからって「格差社会が悪い」と大上段の議論をするより、自分の手持ちの駒の使い方を考えたほうがいい。
なにやら一部で「格差社会について語ってるのは下見て自分のポジションを再確認したい、それなりに余裕がある人だ」って話が出てるみたいだけど、自分に関して言うなら、確かに余裕はあるけど、格差が人事だとは思えないんだよね。Fラン田舎大学に通う身として。
就職率はいいみたいだけど、それは地元に町工場が沢山あるからで、そっからの求人が多いから。大手有名メーカーなんて雲の上。将来は青色ですよ、えぇ。
格差に危機意識を持つことはいいことだと思うんだ。保身の意味で。だから、それなりに余裕がある人にも較差について語る資格はあるし、もっと語られるべき。子どもを大学に入れさせられない?さぁ大変、こんなときのために、あの時格差について議論して、奨学金制度について知っててよかったよ!!みたいな。そんな人たちが増えるといいな(^_^)
http://anond.hatelabo.jp/20070824121820#
できる営業職だった父の背中を見て育った。
学校の成績は良かったが、我ながらおとなしい性格だったので、父のような会社員にはなれないだろう、と小学校高学年の頃に悟った。その頃の将来の夢は考古学者。シュリーマンになりたかった。
それから数年。私が中学生のとき。父、癌を患う。一命は取り留めたものの、落ちた体力では、かつてのように仕事はできなくなる。会社はクビになった(病状の割には長く引き止め、部署を移すなど色々と対策もしてくれたが)。大学時代の友人の伝手で、小さな会社で働き出し、そこでも成果を出すものの、癌の転移が発覚。私が高校の時分に早逝した。
その後、母が生命保険や退職金を切り崩して捻出してくれた金で、出来が悪かったにもかかわらず、私は大学に入学した。小学校時代の神童も、今となっては人並以下。考古学者の夢はとうの昔に捨てていた。折からの不況。まったく学問として興味はないが、手に職のつく資格が欲しい、という甘い考えで入った法学部の勉強は、軟弱で夢想癖のある文学少年には想像以上の苦痛だった。そして、情けないことに、胃に穴を空け、単位を大幅に落とし、留年してしまう。
なんとか四年次まで進級するものの、就職活動でまた胃潰瘍になる。入院。今度は留年こそしなかったものの、就職浪人になる。ただでさえ社交性がなく、新卒の下駄でぎりぎり内定が出るか出ないかの身。カウンセリングや話し方講座なども受けてみるものの、大した影響はなく、どうにも上手く行かない日々。ようやく出た内定は、小さな会社の営業職だった。
それから半年が経つ。やはり父は偉大だった。時代のせいもあるのかもしれないが、この過酷な職業に良く耐えられたものだ。先日、あまりの不調にかかった医者に、軽度の鬱病と診断された。
そんな私の現時点での考え。
不器用で、内向的な人間が、幸せに生きられる場所なんて、この世に、ない。
努力しても、変えられないものが、ある。
母が無事に逝ったら、私も穏やかに逝けたらよい。そんなことばかり考えている。