はてなキーワード: デイケアとは
レスをどうもありがとう。
「CPU」が早いおかげで元々できる子のように思われるけど、決まり事を「インストール」したり試行錯誤するのにどれだけ努力してきたかってのが分かってもらえないのがいちばん辛い。
うちの子も、新しいことを身につけるのにとても時間がかかる。
「分数の割り算は、学校で学ぶのは、たぶん3回目ぐらいです。その前に家で2回ぐらいやっています」
と言ったら、「そこまでやらなくても」と前の担任には驚かれた。
一旦、身につければ忘れないが、そこまで行くのに人の何倍も時間がかかるところは、本当に理解されない点だ。
「この間やったばかりなのに、なんでできないのか」
と何度も厳しく叱ってしまって、本当に申し訳ないことをしたと思っている。
主治医がいる病院は、都内で、発達障害がある成人のための就労支援デイケアをやっているので、検索すると出てくると思う。
親身になって、話を聞いてもらえて、やっと希望がわいてきた。
アドバイスをいろいろとありがとう。
自分からは気付くことができないので、もう大きくなったら、私の方から提案をしてみるつもりだ。
本当に、どうもありがとう。助かりました。
私の兄は精神障害者である。3、4年ほど前に発症、障害者手帳を交付され、精神障害者となった。
病名は統合失調症。幻覚を見て幻聴を聞いて、異常なほどまでにあらぬ心配をする病気。
兄の場合、3年前がピークであった(恐らく急性期がその頃だったのだと思う)。
それから徐々にであるが、兄にだけ見えていた世界が見えなくなり、普通の人に戻りつつある。
ただ、心配をし過ぎる点のみが、家族の私にも異様に映る。それ以外は何もおかしな点はない。
兄が今現在に至るまで、精神的な支えとしていたのが、サイクリングである。
兄は昔から運動が好きだ。精神病院から退院し、しばらくはデイケアに通っていたが、兄には時間が余っていた。
それまで趣味と言える趣味を持たず、強いて挙げるならば勉強が趣味だと公言していた兄。
父はこれを良くない傾向と考え、勉強をして家に閉じ篭らずに、外に出て運動をするようにと言いつけた。
そうして兄はサイクリングを始め、昨年には大会でそこそこいい成績を残せるまでになった。
また、それと同じくらいの時期に就職が決まった。昨年は良いことが重なったので、良かったなと暢気に思っていた。
私も、家族も、そして兄も。
今年に入って間もない頃、兄に新聞社から取材のお願いが来た。
精神障害者がサイクリングを通じて元気になったという美談を書きたいんだと。
(美談、などとは言っていなかったらしいが、美談が書きたいとしか私には思えない、ので美談と書く)
兄は、匿名且つ顔を出さなければ、という条件付で引き受けた。
しかし、2回目の取材の際、顔も名前も出して欲しい、それが君のためになるから、と記者2人に諭され、兄は断ることが出来なかった。
いつまでもそのことを気にして、食事も出来ない有様。兄の様子がおかしいことに父が気づき、その理由を聞き出すと、
父はすぐに新聞社に電話した。結局顔も名前も出ないことになったけれど、記者はこのことを最後まで疑問に思っていたようだった。
顔や名前を出すことがためになるのだと、本当にそう考えているらしかった。
兄は障害者ではあるが、毎日真面目に仕事をこなし、精度も悪くないので、サポートしている人たちからの評判もいいらしい。
少なくとも、サポーターの人は兄を心配性だけれども普通の人と認識しているようだ。
そのように一定の評価を得ていることもあり、兄は彼らの飲み会に誘われた。
健常者多数に障害者1名の奇妙な飲み会は、楽しいものだったそうだ。兄以外の人間にとっては。
施設の幹部も交えての飲み会は、主に施設で働く障害者への愚痴で構成されていた。
勿論、彼らは兄のことは何も言わない。聞き分けの良い、真面目な、そして割と健常者に近い障害者だと認めているから。
それは、兄にとってはとても名誉なことなのかもしれない。しかし、兄は、こんなにも不愉快になった飲み会は今までになかったと語っていた。
不愉快になるばかりの会だったと。
誰も自分だけでは解決できない問題を抱え、そうなりたくてなったわけではないのに、
皆、ひたすら真面目に働いているのに、サポーターは障害者を儲けるための道具にしか考えていない。
帰宅し、苛立たしげに酒を飲みなおしながら、兄は語った。
障害者って何なのだろうな。社会に疎まれ、利用され、そして庇護されることでしか生きられないのだろうか。
その疑問の答えは恐らくイエス、なのだと思う。腹が立つし、納得は出来ない。
カウンセリングは高いけど、そこは高すぎじゃないのか。
自分が通ってるところは一回3000円だよ。予約状況によるけど時間制限も明確にはない。
あれだよ、地域名 + カウンセリング でぐぐって出てくるようなところはそりゃ高いよ。
精神科でもデイケアとか作業所を兼ねてるような施設が整ったところを探すか、
(ただしこういうところは安価なカウンセリングが受けられるが「ガチ病人」向けなので、
むしろカフェっぽい雰囲気のメンクリでなんとかなる人が行くと逆にヤクの効果で悪化する恐れ大)
オフィス街にある「働くメンヘラ」向けの病院を探しなおしてみては。
仕事ができる状態を目指すことを目標にしたケアが充実してる。特に女性なら限定のケアも受けられるしね。
1対1じゃなくてもいいなら、グループワークみたいなんだともっと安価だし。
ていうか腹が痛くなることに力入れて説明したほうがいいと思うよ。
私は、1965年早生まれ、東京五輪世代です。ひきこもり問題については、多くのひとが、30歳未満、あるいは35歳未満を想定していると思われます。けれども、40歳前後、40歳以上のひとたちの存在については、ただきもちわるくみられるだけで、専門家にしても、当事者にしても、あまり語られていないように思います。
私たちが、思春期から青年期をすごした70年代から80年代にかけて、ひきこもり問題が語られることは皆無に近く、私もそうですが、ひとりでさびしく、えたいのしれない悩みにむかっていました。このところようやく、ひきこもり問題が社会問題として、クローズアップされましたが、もうそのときは、私たちは、青年とはいえない歳になっていました。
わたしは、この歳になっても、自分自身の思春期の問題が解決されたり、思春期葛藤をのりこえているとは思えません。思春期・青年期に卒業していなくてはいけない問題が卒業できずに、今後は、自殺率の高くなる中高年期をむかえるわけで、こころのなかに、累積債務がたまるばかりで、不安でいっぱいです。 現在、語られているひきこもり解決策は、私からみると、20歳前後のひとたちを想定しているように思えます。歳に関係なく共通することもあるかもしれませんが、人格がかたまり、人生の年輪だけが増してしまった、高齢化したひきこもり者の解決策は、個人や家族だけではとうていうかびませんし、専門家の間でも、語られにくい、あるいは良案がみつかりにくい問題なのかなあと思います。
私自身、大学卒業後、何度も就労にトライしたり、精神科・カウンセラー・デイケア・自助グループなどを利用して、専門職をめざしたりして、あの手この手をつくしたのですが、もう万策つきてしまったと感じています。人生が破綻したとおもっています。 私のように、思春期・青年期から引きずっている中高年のひきこもりは、ほんとうに、「終わらない思春期」の問題だと思います。思春期・青年期・中高年期の対人不安や社会不安などが複雑に入り混じった問題について、希望のみえる打開策をもっと社会全体で考える気運があってほしいです。専門家の方には、高齢者グループにしぼって、ひきこもりの打開策を研究していただきたいです。
高齢者グループのひきこもり者たちは、なぜ、ひきこもりから抜けた出せないかというと、数十年前から現在にいたるまで、当事者が単独でもがき苦しみ、若い世代と比べて、ほとんど社会において、ときには専門家においてでさえ、扱いずらい、扱おうとしない問題だったのではないでしょうか。そして、年月を増すごとに、悩みや問題がこじれる一方だったのではないかと思います。
「残りの後半生、わずかでも希望をみいだしたい」「すこしでも、ひとのやさしさやあたたかさにふれてみたい」「えたいの知れない孤独な気持ちをわかってほしい」「すこしでも、おとなとしての自信をもちたい」これらが私のこころからののぞみです。
このように私と似たような悩みやお考えを持っている方、いらっしゃいませんか。個人的には、ひきこもり高齢世代と自称されるかたがたにこそ、インターネットでもその他の手法でも
かくれていないで、ひとりでもやもやしていることを思い切って語ることができれば、みんなで考えあう気運がもりあがるかもしれないと思っています。
入院していた期間は二年弱らしい。らしい、というのはその間の記憶がほとんど無いからだ。いや、うっすらとは覚えている。覚えてはいるのだが、ばらばらの断片が散らばっているだけで、自分の記憶という感じがしない。なんていえばいいのかな……時間の流れ方がぐちゃぐちゃなのだ。ここ最近の記憶と昔の記憶は時系列に沿っている気がするけど、入院時とその直前の記憶は鍋で煮られたかのようにごっちゃごちゃなのだ。そのせいだろうか、自分がまるで二年前からタイムスリップしてきたかのように感じてとても戸惑ってしまう。プチな浦島太郎気分。
まあでも、浦島気分なのは記憶が飛んだことだけに起因するわけではないと思う。社会にいる居場所も失ってしまったことも大きいと思う。どこからも、取り残された、この気分。
自分は、統合失調症という病気を患った、らしい。らしい、というのは、医者も断定はできなかったからだ。「おそらくは、陰性のみの統合失調症かと思われますが…」と言葉を濁していた。統合失調症の典型的なイメージは陽性症状である妄想・幻聴・幻覚だろうけれど、自分にはそれが一切ない(それは医者の診断ではっきりしている)。だから、自分の病気を説明するとき、ちょっと面倒くさい。同じ精神障害者でもよくはわかってもらえないことが多い。主な症状は、ひどく落ち込むこと。何にもやる気が起きない。ベッドから起き上がれない。それだけ。あ、自殺未遂もやらかしたことはあったけど、でも、死にたがりだったのは小学生のころからだからこの病気のせいなのかどうか不明。
病気は、だいたい落ち着いてくれたみたいだ(だから、退院できたのだし)。とりあえずは、生きていける。でも、生きていく場所がない。
まず、職がない。将来性がない。社会でいる場所なんてどこにもない。恋人もできないであろうことも容易に予想できる。結婚なんて夢のまた夢だ。子供だって望めないだろう。友人もいない。もともと少数いた友人は、病気発症と入院で失ってしまった。同じ精神障害者で友人を作れば?という意見はたまに聞くけれど、一般の人とすら付き合うのが難しかった自分が精神障害者と付き合うなんて難易度が高すぎる。病院でもひとりぼっちだった。デイケア、という社会復帰支援をするようなところに通っているけれど、浮かないようにするのが精いっぱいなだけだ。
孤独だ。とても孤独だ。親が死んでしまったら会話する相手もいなくなることだろう。自分は、24だ。これからさきずっとずっとこの孤独が続くのかと思うと、この孤独が癒されることはなく一層ひどくなっていくだけなのかと思うと、ぞっとする。
まだ、インターネットがあるからすこしはまぎらわせる。でもこれからさき、インターネットなんて贅沢はできなくなるかもしれない。その時は……どうしよう?どこにも、だれとも、つながることなく、ただ、苦しむだけのために、ずっと、生きるなんて、そんな。
これから、どうしよう。どうすればいいんだろう。病気がよくなったって、いいことなんてどこにもない。無駄に元気になった分だけ、とても苦しい。
誰にも吐き出すことができないから増田に書いてみた。ごめんなさい。
インターネットはいろんなものを恐ろしいほど身近にした。
私は詐病ではないとしか思えない妄想にとらわれている人間をこれまで30年弱の人生で2回ほど見たことがある。ひとりは痴呆が進みつつあった祖父であり、もうひとりは高校時代の元同級生だ。祖父はあるとき突然強烈な被害妄想と見当識の異常を示し、老人性のせん妄と診断された。一過性のものであったらしく薬を飲んだり飲まなかったりしているうちになんとなく改善した。元同級生の場合はどちらかといえば思い込みが激しいだけだったかもしれない。だが、卒業後しばらくたってから唐突に私を訪ねてきた彼はあきらかに私の見えないものを見ていた。そして私に心酔していた。私が死ねといえばおそらく彼は死んでいたと思う。私は彼を恐れずにいることができなかった。
祖父はすでに亡くなった。元同級生は現在関東で生活しており、海外で暮らしている私に数年に一度、難解なメールをよこす。
祖父は漠然とした敵愾心の対象を「暴力団」と呼び、暴力に屈しつつある自分を恥じていた。齢八十を超えていたその当時、「暴力団に拉致された」ことを「一生の恥だ」と訴えていた。彼はその日デイケアセンターをはじめて訪れたのだった。
元同級生はいわゆる精神世界的な領域に傾倒し、必死に私をそちら側へ救い出そうとしていた。私は彼と接しているうちに、世界には確かに別の領域があり、そこで生きる人間がおり、我々は分かり合おうとしなければ決して交錯することのない世界に住んでいるのだと悟った。90年代の終わり頃のことだった。
私が知っている二人にとって、世界は漠然とした「悪」に蝕まれ、あるいは現実を超越した「善」が目の前に展開する地平だった。おそらくその二つは同じものだったのだろうが、私はそれを「よくわからない」といい続けた。そうすることが私自身のために必要であるように思っていた。
いま唐突に思い出したが、もう一人知っていたような気がする。大学で教鞭を執る父の研究室に遊びにいっていた子供の頃、父の同僚が配布していた一枚のビラをみた記憶がある。そこには火災報知器から発せられる電磁波が人間の精神に及ぼす影響、その装置の背後にある陰謀について書かれていた。質問した私に対する父の応答は記憶にないが、ガリ版刷りのビラに描かれていた火災報知器の分解図をよく覚えている。
ここまでは思い出話。
諸兄ご存知のようにインターネットは妄想をも媒介し、増殖させている。「ストーカー」という言葉が巷に定着したのはたしか90年代の後半だったように思う。漠然と背後から忍び寄る「悪意」が「ストーカー」と結びつけられること、そしてそれがインターネット上の語彙として流通することも十分自然なことだ。ただ、20世紀の終わりのこのときまで、彼らの語彙を正確かつ広範囲に伝達するメディアを人類が持っていなかったことは事実だろう。それまでは「妄言」かガリ版刷りのビラ、あるいは執拗に取りためたノート、医師のメモにしか彼らの「世界」は記録されることはなかった。彼らはメディアの限界によって否応なく孤立し、孤絶し、知られぬままにどこかへ消えてしまっていた。
だが、いまやメディアは万人のものだ。
「集団ストーカー」と「電磁派」、あるいは特定の宗教団体の被害を訴えるブログが溢れていることはよく知られていることだと思う。彼らの「世界」は、写真、動画、筆記によって極めて正確かつ着実に記録されつつある。その「世界」の強度は、ちょうど2ch、あるいはこの「匿名ダイアリー」のような空間の「向こう側」には実は誰もいないのではないか、という仮説が私たちにとってひとつのリアルなジョークであるのと同じくらいに鮮明で、堅固で、揺るぎないものだ。
例えば。
miyoko gotoという、現在スイスのアーラウで「亡命」生活を続ける日本人がいる。彼女は米国留学中に発症し、一度は強制力をともなった医療措置がとられたが、一度帰国を果たすものの再訪した米国から欧州へ遁走し、現在スイスに在住している。彼女の活動は現在進行形でblogやyoutube上に記録され続けている。それはすでに文字通りの圧倒的な「ライフログ」としかいいようがないものだ。それらは我々にとって彼女の困難な生存以上の事実を伝えるものではない。だがこれほどに強烈な生の記録は、私にとってはあまり目にしたことがないものだった。
人類学を専攻し、コンピュータプログラムの知識もある彼女は、自身のホームページやSNSを通じて同じ世界を共有する「彼ら」と結びつき、知見を交換し、より強固な「現実」の地平へ下って行こうとしている。
いまや我々がひとりではないように、彼女たちもひとりではない。そして無論我々も彼女たちにメールを書き、コメントすることもできる。
運が良ければ彼女は日本へ送還されるか、スイスの医療施設で保護を受けることになるだろうが、運が悪かった場合はおそらく誰も救うことができまい。いくら治安のよいスイスの田舎とはいえ、身寄りも国籍も何も持たない彼女が知らぬ間に消えてしまうことは十分あり得る。
私には、彼女のような存在を憐れむいわれもなければ、その近親者を責める理由もない。
ただ、その「生きていること」という「情報」が、日本に住む、彼女の近しい人々に伝わっていることを願っても許されるのではないかと思った、ということを記してみたかった。
かかる時間は同じくらいだと思っていただきたい。
ちなみに在来線は1時間に1本あるかないか。終電は23時で終わり。
バスは1日に2,3本。
過疎高齢化が進む中、一部の夢にあふれた若者が農耕に励んでおり、
田畑を売ろうとしないので、目新しい施設ができる予定もない。
天災は少なく、気候はほどよく温暖。
雪も1年に一度積もるかどうか、といったところ。
この地方だけは無事に出荷できたおかげで農家はウハウハしたらしい。
そんなところに建つ我が家は築25年、
山の麓だが、その山には果樹園があり、しっかりと根をはっているので
土砂崩れの心配もほとんどない。
私は一人娘なので、両親が亡くなると↑を相続することになる。
相続する頃には、おそらく売る気もなくなるくらいの価格になっているだろう。
こんな地方でリタイヤ後にのんびり過ごしたい、
という人はどのくらいいるだろうか。
もしもいたら、私は言いたい。
30過ぎの女ですが、結婚してください。
最近、きっと今までならどうってことなかった出来事が、
怖くて、悲しくて、仕方ない。
僕の家が面している通りは道幅が狭くて、一方通行だ。
隣の家には、高齢者のためのデイケアセンターに通う年配の女性が住んでいて、
毎朝、彼女を迎えに来る大きなワンボックスカーが、その狭い通りを
ゆっくりとやって来て、3分くらい停車して彼女を乗せた後、
ゆっくりと去っていく。
ワンボックスカーは車幅が広いので、そうしているあいだは、やっと人ひとりが
横をすり抜けること位しかできない。でも僕は、たかだか3分くらいだし
女性やワンボックスカーを運転している人を急かすのも悪いな、と思って
その場面に遭ったときは、なるべく急かさないように少し後ろに立ちどまって、
女性が無事車に乗り込んでいくのを見送っている。
この道を通るほとんどの人が、僕が見かけるほとんどの人が、そうしていた。
今朝、いつもと同じように、女性が車に乗り込もうとしていたとき、
向こうから自転車がやってきた。
自転車の速さは、別段急いでいる風でもなかった。
でも、その自転車の男性は、女性と車の前まで来て自転車を止め、片足をつくと
女性が車に乗り込み、ドアが閉まるまで、ずっと鳴らし続けていた。
ドアが閉まると、男性はベルを鳴らすのをやめ、車の横の狭い隙間を
無理やり自転車ですり抜けて、小声で何やらつぶやいたあと、去っていった。
女性はきっと、男性の母親くらいの歳だろうな、とそのとき思った。
その心の暗さが、悲しくて辛くて、出勤中に泣いてしまった。
今もずっと辛くて、怖くて、眠れない。
この悲しみが消えるくらいなら、死んだって良いような気さえしている。
こんな風景は、生きていればきっと、ほんの少しついていない時なら
うっかり目にしてしまって、少し嫌な気分になって、でもそれで終わりにできるはずなのに、
最近何故か、こういうことが頭から離れない。
これからもこんな悲しみや辛さが訪れるのだと思うと、生きていることが恐ろしくなる。
少し疲れているだけだと思いたいのに、
死んで悲しみが止まるなら、死んでしまいたいとも思う。
どうしたら眠れるんだろうか。
死んだほうがいいのか。