はてなキーワード: 駄目押しとは
上のエントリは,「EOEが公開された頃は今ほどインターネットが普及しておらず,情報が欲しい人や感想を言いたい人はNIFTY-Serveなどのパソコン通信で細々と交流していた」という話。この話を読んで「そういえば当時パソコン通信上でさかんに議論されてた『ラストシーンの解釈』をまとめたものがあったはず」と思ってディスクをサルベージしてみた。分量が多いので二回に分けて投下してみる。
当時から「観ると語りたくなる映画」だったんだなあとか,昔も今もみんな同じようなことしてるなあとか,いろいろ懐かしい。
首を絞められながらシンジの頬に手を添えたアスカ。 このまま終わったら、アスカはただの聖人になってしまいます。(^^; アスカだって、問題のあるリアルな人間なのです。(アニメの中だけど。) それ描く為に製作者は、イメージ的には顔を「殺してやる」の時のまんまにして、 アスカ側からのシンジとの不一致を出すための行為として、「気持ち悪い」の悪口 を言わせたのでは無いでしょうか。 ここで「バカシンジ」だったら悪口に聞こえないし。
またこれは観客に向かって庵野監督が言ってるのかなとも思いました。 庵野氏はかつてEVAファンに失望しているようなことを言ってましたし、 アニメから現実に戻れということも言ってたと思います。それが実写で 観客をうつしたり、「現実は夢の終わり」などと言っていることに表れている ように思います。ラストのセリフが駄目押しかなと・・・。
シンジが“男のくせに泣いている”ことに対する非難
あるいは、監督自身の制作後感を語っているようにも思いました。 大きな期待をかけられ、やりたいことは膨らみ、当初の完成予定は遅れ、 賞賛と非難が入り交じる中、ファンの期待を(たぶん)裏切らない形で作品を 完結させた・・・。それは「疲れた」を通り越して「気持ち悪い」こと だったのかもしれない。
「きもちわるい」アスカにとっては、感覚的なものじゃなく、生理的にただ気持ち 悪かっただけかもしんないしんですよね。
シンジや綾波はあれでいいかもしれないけど、彼女の性格から して、今までの数々の屈辱を背負ってこれからまだ生きていく ってことは「気持ち悪い」そのものじゃないかなぁ…。
えっと、アスカがシンジに「加持さんはもういないんだよー(うろおぼえ)」と 言われてあ然とした後で風呂のシーンになって、湯船の水面を見つめながら 「ミサトやばかシンジの使ったお湯なんかに誰が入るもんか… ミサトやばかシンジの使った洗濯機なんか誰が使うもんか… ミサトやばかシンジの……・・・」 で、 『気持ち悪い』 で、「ミサトもいや!シンジもいや!ファーストはもっといや!!…」と 爆発したように思います、あぁ、うろおぼえなんすけど、すいません。 あと、ここのシーンって「DEATH編」の中でもテレビにはない 新作のとこだったような気もしてます、あぁ、 なんせうろおぼえなんで許して下さい、あぁ。 んで、そういうとこに、この『気持ち悪い』というセリフが使われていたことに、 そのなんだあれです、あたくし的には興味あるです。 最後のセリフのフックとして使ってるのかしら、とかとか。
つまり、あれだけ首を絞められても死ねない、という アスカの、自分自身に対する言葉かな、と思っています。 「生命の実」も取り込んだ、って事なのかな?
アスカの「キモチわるい」は、シリアスすぎる雰囲気になるのがイヤさの、テレ かくし半分だと思います(^^)。
ラストのアスカの台詞ですが、案外、怪我のショック症状で本当に気持ちが 悪かったんじゃないかなぐらいに思っています。アスカがまともな性格なら ともかく、シンジと同じくらい壊れているアスカにいわれても、オタクのオ タク批判のようなもので、まともに受け取る必要はないと思っていますから
これから二人が“アダムとイブ”として生きていかなければならないことに対する 嫌悪感
この映画が凄いところは、(中略)その後の砂浜のシーンでシンジが、 結局アスカに投げつけられる言葉「気持ち悪い。」が、 がんばったからと言ってそんなにほいほいうまく行くものじゃない、 現実は甘くない、という点を突きつけていた点にあるとおもいます。
最後のシーンについて僕は、シンジに叩き付けられた現実の世界 ではないかと思います。 倒れているアスカの光を失った目、シンジの頬に触れた手とちぐ はぐな「気持ち悪い」という言葉。アスカがシンジに対し「気持ち 悪い」って言うのは結構普通だけど、ちょっとおかしいなと思いま した。以前にキス騒動で似たようなことがあったけど、今回は首を 絞められてる最中だし........。 ここで僕は自分と他人の境界がわからないLCLの世界(原始 地球の海に酷似した世界。海に象徴される)から、他人との境界が はっきりし互いに気持ちを理解し合うのができない世界(海に対し陸、 すなわち二人がいた浜)に戻ったら、アスカはあの戦闘で気がふれて しまっていたのではないかと思いました。(心を失ってしまった?) シンジは共に歩いて行こうと思っていた女性が以前の姿を失っていて、 人形の様になっていた。彼女のことを考えいっそのこと殺そうと考える シンジ。しかしできない。 アスカが包帯をしているのを見ると、あれはあの出来事の直後では ないですよね。(戦闘以前、戦闘中は頭に包帯をしてなかった。) となると、あれは後日、もしくは後に起こってくることの提示だと 思うんですがどうでしょうか。 もしこうなると、アスカは最も嫌っていた心のない人形に自分が なってしまったというかなり皮肉な結果になってしまいますが.......。 まごころを君に..... シンジのアスカへ対するものだったのだろうか。
結局ある意味でテレビと同じ。 つまり、自分じゃ最後を書けない、だからそれなりのを書いて 皆さんそれなりに満足(または不満) というところですかね。
22話で精神的に侵食されたアスカは、25話で今度は肉体的に侵食 されてしまったわけですね。 こう考えると、なんとなくラストシーンのアスカの言葉も納得がいく。 「気持ち悪い」というのは、世に存在する「男」に対する嫌悪感が発せさせ た、ごく自然な言葉だったのでしょう。
あれは(監督の考えている)アニメファンに対する痛烈な嘲りだと感じました。 世界の全てを破壊し飲み込んだ初号機とシンジには、同時にその世界に 対する全能の力も与えられました。世界をどうするかは、全てシンジに まかされました。全てを虚無へと帰すことも、虚構の世界を構築して再び そこへ逃げ込むことも、つらい現実の世界へと歩き出していくことも、 すべて、彼が心を決めるだけで可能となるのです。 そして同時にそれは、観客一人一人に突きつけられた選択でもありました。 これはシンジの選択であるだけでなく、あなたたち自身の選択でもあるのだと。 画面に現れた、実写シーンや春の映画の観客たち、パソ通上での繰り返される 監督の悪口などは、そのメッセージじゃないかと思いました。 当然、答えは観客の数だけあります。 その中の一つの可能性をえがいてみせたのが、#26のBパートだったん じゃないでしょうか。あれは「それでもエヴァに依存しようとする人々」を 象徴しているのではないかと。 あれはある意味、多くのファンが予想し望んでいた結末でした。 世界が変化し、その中に二人だけ生き残ったアダムとイブ。 しかも、ご丁寧にもアスカにはレイの象徴である包帯と眼帯まで まいてあります。 しかし、そこにあるのは、おぞましいレイの死体。血の色の海。 シンジの殺意。アスカの蔑みの表情。と、監督は甘い幻想を徹底的に 打ち砕いていきます。 そして、とどめにアスカがあの台詞をいうのです。
他者が存在する世界に戻ってきたシンジは、自分の選択に絶対の自信が持てなかっ たんでしょう。 あそこでアスカの首を絞めきれたら、シンジは自分の世界も終わらせていたと思う。 でも、できなかった。甘い希望にすがりついたんだよね。で、自分の弱さに泣く。オ イオイ泣く。 なにかわけのわかんないことで泣かれたら、きもちわるいよね。絶対、きもちわる い。 あそこでシンジを無条件に受け入れるアスカだったら、他者として成立しないと思 う。
帰ってきたシンジは、体を再構成したアスカを弐号機のエントリープラグか ら引っ張り出し手当てをしたが、彼女は植物人間状態のままであった。 シンジは、毎日みんなの十字架を作りながらアスカが意識を取り戻すのを 待っていた。 いっこうに意識の戻らないアスカを横に、途方に暮れるシンジは、ふと水面 を見ると綾波の姿が、衝動的にアスカの首を締めるが、彼女の手が彼の頬に触 れた。彼は、意識を取り戻した喜びと彼女を殺そうとした自分に涙した。 意識を取り戻したアスカは、生理的な不快感と、自分を見殺しにしたシンジ が目の前にいることに対し「気持ち悪い」といった。 物語としてはこんな感じかなと思います。
多数の人間を犠牲にすることによって現実を取り戻した。 自分の為した罪を背負い生きることを選んだ。 飛び立つことは美しく、気持ちのいいこと。 醜いかもしれないが「気持ち悪い」かもしれないが、 本当の快楽とは、地に足を付け 他人の首を締め続けることによってしか得られないのか?
この言葉はもっと前向きに捉えて良いのでは? アスカと言えば「唯我独尊」な状態だったわけですが、彼女がシンジを見て 「気持ち悪い」と言うのは、それは彼女が本気で他人を受け入れようとし始め たからこそだと思います。 他人を自分の心の領域に踏み込ませることは勇気のいることでしょうし、気持 ちの悪いことでしょうが、それを彼女が始めたからこそ、「気持ち悪い」とい う言葉も出てきたのでしょう。 ある意味で彼女はシンジ以上にATフィールドの強い人間であったかもしれな い、その彼女が(サードインパクトによって強制的に取り払われるのではなく て)自らの意志で心の壁を開放しようとしていることが重要なことのように思 えます。
シンジはアスカを求め続け アスカはシンジを拒み続けた。 最後にシンジはアスカを殺そうとした。 なぜだ? でも出来なかった。殺せなかった そして、やはり最後までアスカはシンジを拒んだ。 それが現実なのだ。
けど、首絞められて、そいつがいきなり泣き出したら 「気持ち悪い」 というか、そういう似た様なことを思うだろうね、やっぱり。
私はこのI need youのテーマをアンビバレンツと理解した。 人間の行動は大半がこのアンビバレンツの要素をおおかれすくなかれ含んでいる。 合いと憎しみ,冷たさと優しさ,強さと弱さ。恐怖と怒り。悲しみと喜び,希望 と絶望,これらはみな表裏一体で切り離す事は出来ない。 シンジとアスカの行動と言葉はこのアンビバレンツを象徴しているのではなかろう か。私にはそう思えた。 シンジの嗚咽はこのアンビバレンツの悲しみを,そしてアスカの言葉はこのアン ビバレッンツに対する嫌悪をそれぞれ象徴していたのではないだろうか。 アンビバレンツに苦しみながらシンジもアスカも生きてゆくのだ。
さて、シンジが他人との共存を選んで現実の世界に帰ってきてアスカと砂浜 に寝てる訳ですが、ミサトの墓標があった事からいくらか時間の経過があった 様です。 アスカが怪我をして包帯を巻いているのはアスカはATフィールドを失わなか ったからLCLにならなかった様です。(レイの迎えが来てない)プラグスー ツを着ている事からも説明出来ると思います。きっとあんな状態でも弐号機が 守ってくれたんでしょう。(ここは希望的観測) そして戻ってきたシンジが弐号機のエントリープラグを探し出しアスカを助 け出します。包帯等はきっとエントリープラグに備え付けてあるはずです。 そして砂浜、、、。 しかしアスカは自我崩壊状態。「生きる意志」を無くしてます。半ば絶望気 味のシンジ。 そこにレイが現れ、そして消える。シンジは何かを悟りそして 危険な賭に出ます。ここからが僕の新解釈なんですが、、、 アスカの「生きる意志」を試すために彼女の首に手をかけます。そしてシン ジの願いは叶い、アスカはシンジの頬にふれ、シンジに「生きる意志」を示し ます。 喜びに泣き崩れるシンジ。そして最後のセリフ。アスカが元に戻った事を表 してると考えたいです。
なんか、ラストの泣き虫シンジとアスカのセリフにマイナスなショックを受けている ファンが多いようですが、ボクにはそれが良く理解できない。どう見てもラストのシ ンジはうれし(はずかし)泣きだと思うし、アスカのセリフも前向きなモノだったと 解釈しました。
砂浜でアスカは無表情で寝ている訳ですがあれは再び精神崩壊にあった状態 だと思います。やはり弐号機のなかでの復活はサントラのタイトルにもある「 偽りの、再生」です。弐号機(母親)を失ったので元の状態に戻ったのと、エ ヴァシリーズによる陵辱によるところも大きいでしょう。 そんなアスカをシンジは見つけます。シンジを受け入れないアスカ。 ここにシンジの成長があります。ここでアスカに「目を覚ましてよ」とか「僕 を一人にしないで」とか声をかけたら303号病室の時と一緒です。成長の跡 が感じられ無かったでしょう。彼は首を絞めるという行為でアスカ自身に存在 の是非を問いました。 しかし、何故首を絞めたのか? 首を絞めるという行為はアスカにとって特 別な意味があります。母親との事のトラウマであり、それが頭にあった為にシ ンジとの抗論の時、彼に首を絞められたとき抵抗できませんでした。(そう見 えた) 首を絞められた事に抵抗する行為は母親のトラウマを乗り越えた事も表しま す。シンジがここまで考えたとは思えないのでこっちは結果論ですが。 シンジがアスカの首を絞めた真意は確信には到りませんが、結果としてシン ジの成長と同時にアスカの生きるという意志表示、トラウマの克服、などアス カの補完も表したシーンに思えます。あらためて考えるとこのシーンはすごく 前向きなシーンです。
アスカが「気持ち悪い」と言ったときの目は、心底嫌いなものを見る ときの目に見えるんですがどう思いますか。
だがそれは、おぞましい虚偽に統合=補完されない真実へ至るユイ一の可能性 でもある。互いをさらにバラバラにしようと「噛み合う」者同士の断面が、なぜ か一致し「噛み合う」という皮肉な意図せざる結果こそが、コミニュケーション の「奇跡的」な本質なのである。(だからG.バタイユのような思想家はそのよう なコミュニケーションを「聖なる」ものと形容する。) これは「コミュニケーション=癒し」、あるいは「他者を傷つけるな(あるい は、他人を傷つけない限り何をしてもよい)」という価値観に対する、やはり根 底的な批判である。――「希望」に向けてシンジは言う。「それでもいいんだ」 ラストシーン「I need you.」はその明確な寓意である。 ――補完という「夢 は現実の中に」意図せざる形である。互いをさらにバラバラに引き裂こうとして いる二人(アスカを絞殺しようとするシンジとシンジを「気持ち悪い」と拒絶す るアスカ)の間には明確なコミュニケーションが成り立っていた。 それは、「自分の横にいる人と普通につき合う」ことができている者なら、も っと上手にしているのとまったく同じことだ。われわれが自他を分断するべく振 るうに決まっている暴力を、相手(あるいは自分)が死なない程度に、和らげて振 るうこと。逆に言えば、もうすでに暴力が和らげられてしまっているからこそ、 われわれは今ここで生きているとも言える。 われわれは日常の中では分断の暴力を、「人の気持ちを些細に傷つける」ような 隠微な形で振るい、致命傷への短絡が「結果的に」「意図に反して」回避されてい たりもする。些末な暴力の遍在状態の中で、われわれはなぜか、「まだ生きてる」 のである。
監督「君たち…、気持ちいいの?」 監督「おれは見てて、気持ち悪いと思うゾ。」 終劇
「気持ち悪い?つわりじゃないの? ちゃんと病院行って検査してもらった方がいいよ。 サードインパクト・ベビー誕生!」 ・・・・・・・なーんてね。
結局エヴァ劇場版って、エヴァという永遠に終わりそうもない物語を、 完璧に終わらせることだけが目的だったような気がします。その意味で ラストの気持ち悪いというのもエヴァを完璧に終わらせる為の台詞とし ては最高の決め台詞だったかもしれません。
あれは劇中の「気持ちいいの?」に呼応するものだと思います。 そうでないと「気持ちいいの?」という言葉の出現が唐突すぎると思います。
なぜアスカの首を絞めなければならないかはわからなかったが最後一緒にいたの がアスカで最後の台詞があの台詞だったのも現実の厳しさをあらわしていて非常 にリアリティがあって良かった。あれが綾波でもミサトさんでも母さんでもシン ジを受け入れてしまうだろうから、あの台詞にはならなかっただろうし、やっぱ り最後はアスカしかなかったんだろうな
あれほど激しく、直接ぶつかりあった2人って、あの話の中にいるかな。 そんな風に思います。 これからが、大変なんだよ、と。 あらためてひとに触れるわけで、それが初めてなんだから、 「…気持ち悪い…」というのは、仕方ないんじゃないかな、と。 まずはそれでいい、それからどうするかなんだっていうこと、かな。 シンジの髪に、頬に触れたアスカの手が、痛々しいけど、やさしかった。
ヒゲメガネが,ふられたみやむーに嫌がらせしてるだけ。
で、アスカの最後の言葉が「ありがとう。」でもなく、 「バカシンジ」でもなく、 ましてや、「あんたなんかに殺されてやるもんか」でもなかった。 「気持ち悪い」。誰に言った言葉?自分に?シンジに?それとも観ている 俺にか? 最後までアスカとシンジはわかりあえなかったんだね。 そして、唐突におわる物語。何だったんだ?気持ち悪いよ、ほんとに。 「現実を見ろ。」言いたかったことはこれか。 やっぱり大きなお世話だと思うよ。映画ぐらい現実をわすれていい気分で いたかったよ。その証拠に明日は休日出勤だ。とほほ。
最後のセリフ「気持ち悪い」は「けして〔アダム&イブ〕は、みんなが 思っている程に仲むつまじいモノではない」と言う意味かと(^^;)
「とってもきもちいいこと」。身体の、心の境界線がなくなること、とけあう こと…から、もどることをえらんだ、そして生きることを選んだシンジ。 「…気持ち悪い…」は、アスカのシンジへの嫌悪の言葉、としてではなく、シ ンジが、「とってもきもちいい」世界から、とけあう世界からもどってきたのだ、 ということをしめす、そこが、「生きる世界」なんだということをしめす、サイ ンのセリフではないでしょうか。
他人に触れる。それはわからない存在、「気持ち悪い」。でも、アスカのあの 手は、シンジを拒んではいないから。 進んでいけると思う。もっといっぱいお互いをさわっていくとおもう。ずっと 「気持ち悪い」かもしれないけれど。それでも手をのばしつづけることをやめな いだろう。生きていくから、シンジはアスカを殺さなかったのだから。
拒絶も離別で辛い思いをしても人として生きたかった。 だから、人として戻ってきた、アスカを連れて。 人として生きるのに、1番いっしょにいてほしかった(1番好きだった) のが、アスカだったのでしょう。 しかし、アスカの魂は戻ってこなかった。 人としていっしょに生きることすら拒絶された。 だから、シンジはアスカの首を絞めた。 だけど、アスカは戻ってきてくれてた。 最後の「気持ち悪い」というセリフも 「心の壁を作ってくれた = 人として生きてくれた」 という意味があったと考えます。
あの、ラストのアスカの台詞が「よかった」と言えるのは、 そこにどんな意味が込められているからなのでしょう。 僕は、何という救いのないエンディングだ・・・と思ってしまった。 教えてくださーい。
ただ、ラスト。アスカの首を絞めようとしたシンジの頬をアスカがなでる。アスカ が生きていることが判りシンジは涙を流す。何故かは判らない。独りでない、という ことかもしれない。最後の「気持ち悪い」の一言が「アスカがアスカである」ことを 物語っているのことに救われた気はする。
私はシンジはアスカの中に入ろうとしたのだと思います。 しかしアスカのATフィールドはそれを拒む。されどアスカはシンジの頬を 撫でることで、わずかながらの意志表示を示す。それにシンジは涙するも、 アスカはそれに対して一言。「気持ち悪い」と。
アスカが、シンジを罵倒し、拒絶し、否定する、その言動の端々から、アスカ のシンジに対する強烈なまでの「想い(愛・・・はやめとこ(^^;)」がにじみ出 ているような気がして、なんだかジーンと来るのです(←ヤバイかも(笑))。 そう思えば、物議を醸しだしているあのラストにも、一筋の光明が射し込んで見 えるから不思議なものですね~(←確実にヤバイかも(T-T))。
なんだか、見終わった後で妙にさめている自分を感じてます。 アスカの最後のシーン、最後の言葉、それがそのまま感想のひと、 結構いたりして……
あれが二人の愛情表現だったらすっごく恐い・・・。アスカは「一緒に死んで ちょうだい」ってことで母親に首を絞められた事があるみたいだから、自分を愛 してくれる者が首絞めてくれるのは気持ち良いことなのかとか、思ったりもして。 まさに命懸けのSMだな。 って、ことは初号機が3号機(バルディエル)の首絞めたのも愛情表現(シンジ ×トウジ)な訳で、首が落ちたカヲルなんかはもう、最高に愛されてたのかな。 で、ラストでアスカの首を絞めるシンジが鳴咽し、アスカが「気持ち悪い」の は、そういう歪んだ愛情表現を憂いての事なのかなぁと。
ラストの「気持ち悪い」は、私の場合は 「アンタなんかに触られて汚らわしくて気持ち悪い」と「首締められて気持ち 悪い」程度しか思い付きませんでした。
深手を負った状態で気絶していたのに首まで締められたら当然、気持ち悪くなる
アスカの最後のセリフは、自分自身に対してなのかと思うの ですが...アスカが嫌いなシンジの頬を優しくなでている行為(矛盾し た行為)がそう思わせたのですが...
うまく言えないけれど,とても嬉しかった。あのラストでシンジもアスカ も,そしておそらく庵野監督も「こっちの世界」(ってどこ?(^^;))に還っ てきたと思いました。それが無性に嬉しかった。
最後のアスカのセリフで、シンジとアスカは人間として認めあえるんじゃない かな?という気になりました。少なくともこれまでとは一つ違ったステージに 進めたのでは?と思います。すごく暗ーい感じで終わったけど、大団円ではあ ると思います。
もっと救いのある,後味のいいエンディングを作ろうと思えば作れたと思い ます。それでもああいう終わり方を選んだところに,わたしは庵野監督なり の「誠実さ」と「正直さ」を感じました。わたしの「よかった」はそういう意 味です。(でも「好き」にはなれません(笑))
ラストで描かれた少しの「前進」、その程度の変化ならば、 ちょっと心の持ち方を変えるだけで十分な気がするのです。 あんな経験をした後で、普通なら生きていてくれてよかったって、レイが 生きてた時のように泣いてるところだと思うのですが、どうしてほんとに 首を絞めたんでしょうね。 僕は、ニーチェが言ったように、この世はただ繰り返す、楽しいことも苦しいことも 含めて。でもそれを勇気を持って受け入れることが、人間の生きる道なんだっていう ことを言いたかったのかなって思いました。
「在宅ワーク」と言えば苦い思い出が…。
美容院で美容師さんに「仕事はなんですか?今日はお休み?」と聞かれ(その日は平日だった)、「えーと…仕事、在宅なんで…」と言ったら、
凄く苦い顔をされて「えぇー?なんで教えてくれないんですかー?」と言われた。
「え?今言ったじゃん?なんで?」と内心ものすごくテンパって何も言えないでいると、
「そんなに聞かれるの嫌だったんですかー?じゃあもう聞きませんよー」と呆れ声で言われ、その後は終始無言で気まずい雰囲気。
その気まずい雰囲気の中、何でこうなったのか必死で考えた。
声が小さくて鼻声で滑舌が悪いせいで相手には「仕事、在宅なんで…」が「仕事、言いたくないんで…」と聞こえたのではないかと思い至った。
あーそりゃ怒るわなー…何この失礼な人?って思われちゃった…駄目押しに、テンパって無言が完全拒否の態度だと思われて…。
後で気付いても遅い。今更訂正もできない。ほんと泣きたかった。
その美容院にはもう行けなくなった。
…と言うわけで、私みたいに聞き間違われないように気をつけてください。(レアケースかもしれないけど)
実際問題として重視される「形式」って君が考えてるようなものじゃないし。
重視されないけど、皆が当然のこととして暗黙のうちに守っているからこそ形式が機能する。いうなれば本質に触れないで済ませられる部分を、形式でチェックして、はずれなものを落とそうとしている。
別の増田は、かなり基本的な形式を軽くつっついて、増田はボロを出したので「形式」的に落としたんだろう。それは元増田が「本を読まなくても言語学の分野の本ではないとわかるだろう」という直感に基づく形式や、新書レベルの知識教養がないのは馬鹿だろう(意訳)という形式を用いているのと同じ。
元記事書いた時点でほとんど水村本に批判がなかった時点で「権威主義」の批判がまったく当たらないことはすぐにわかりそうなものだが。
水村本への批判の中身やある時点における批判の有無なんてことは問題にしてはいない。元増田が考える根拠を聞いてきたのだが、それが例の「知識」以外見あたらない。さらに、自分の頭で考えていない人を馬鹿にするということは、自分で考えることに何かしら自信があると推測されるのだが、いくつか不思議なところがある。例えばこの部分。
自分の頭で考えられるなら「専門家から見てイチコロ」とは言わないだろう。頼らなくても自分で判断できる「知識」があれば敷衍して説明できるだろうし、100%でなくとも「知識」を元にしてかいつまんで説明するだろう。元増田の性格を推測すると。しかしそういうものはさっぱり出てこないところから、権威にしぼってつっこみ、駄目押しに学歴面から煽ってみたら案の定でしたと。ただ元増田は権威に依存しているわけじゃなくて、つまみぐいしているだけだから、そんなに重症ではないのだろうけど。
もうこの際だから言ってしまうけど、水村本には全部目を通したよ。
この発言もそうなんだけど、カウンターを入れたりポジショニングであれこれやろうとしたんだけど、馬脚をあらわしてしまった。釣りにガチが来たときどうするかもあらかじめ戦略のうちに盛り込んでおかないと釣り師としてスキル不足で、最終的には「僕は釣ろうとしたんだよぅ」とずるずる後退することになる。それはそれで「知識」がもっと必要になってくるのでじゃまくさいけど、お山の大将から抜け出すには労力がかるもんだよ。
まとめって「ニュー速クオリティ」のほう?
違うよ。
wikiのまとめ人ですよ。
あとそのボランティアの話は
http://www6.atwiki.jp/kenmo/pages/16.html
にも書いたけど、あんまり交流もなかったし、質問状のような記事かいても管理人にすっぽかされたそうだよ。
さらに駄目押しにそのボランティアって人からたった今返事もらったから載せておくけど、投稿メンバーの権限は記事投稿のみなので細かいところは弄れないそうだよ。
【全力で潰す】 アフィブログが嫌儲のレスをブログに転載 しかも改変 part26
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1204732157/950
ココ見てね。dat落ちしたら↓
http://mobile.seisyun.net/cgi/read.cgi/temp/namidame_poverty_1204732157/950
節分と言えば古来すなわち子供のころから豆をぶつけたり豆を食べたり鬼に扮して女子の豆をいじったりする日と決まっていて366日の中でもかなりイベント参入障壁の高い1日なのに、巻き寿司業界がへぼい電通みたいな業者と組んで無理やり闖入してきた印象。ただでさえ楽しい豆デーなのに、One More Thingで年寄り臭い巻き寿司イベントなんてかったるくてやってられない。スーパーやコンビニ始め食品を商うところで押しつけがましく寿司を売られて駄目押し。こんなうさんくさいもん受け入れられるわけがない。
なぜ特定の方角を向くのか。それはどう決まるのか。なぜ黙って食うのか。なぜマルカジリか。なぜ太巻きか。関西地方というのは具体的にどのへんか。その風習の起源や逸話はどういったものか。そもそもそんな風習は存在したのか。なぜ俺は2月3日に太巻きを買うべきなのか。1つでも知ってれば上出来だろう。誰も全貌を知らない。ただ或年忽然とやってきて寿司を食えと迫られただけ。なんで美味くもない太巻きなんぞ食わなきゃならんのか。馬鹿らしい。
もちろん繰り返しによる刷り込みは考慮しなければならない。バレンタインやクリスマスなどそもそも蓋然性などないに等しいが広く受け入れられている。マンガなどでさんざん反復され増幅された結果だとしても、それらはしかしやはり受け入れられる要素を持っているのだ。黙って寿司を食うだけのイベントに盛り上がる要素など皆無だし、太巻きはチョコやケーキと並び称されるほど愛されてない。
それでも寿司業界は言うだろう。それがなんとか巻きの仕様だ。世界でいちばん美しいイベントを発掘した。豆まきはどちらかというとお子ちゃま向け。これは広告ではないと謳う広告。しかしそれらの言説はすべて、ソースはソニーとの但し書きがついた変な人の言葉だ。潤沢な巻き寿司の在庫を見て彼らは何を思うのか。
俺が(重さの点で)糞サイトかどうかを判断する方法として、AirEDGEの1xでつなげて見るというのがある。AirEDGEの1xは、スペック上32kbpsで、実効は20ぐらい。ダイアルアップの56kより遅い。しかも、あまりに負荷をかけすぎると回線が切れてしまう。
実名を出して申し訳ないが、AirEDGEの回線を撃墜する常習犯のひとつがアキバblogだ(これを書くために見に行ったら、また撃墜された)
このアキバblog、トップのhtmlだけで94KBもある。そして、画像が100個以上(!)埋め込まれている。さらに駄目押しのIFRAME。