クルーグマン「良い経済学 悪い経済学」p53(日経ビジネス人文庫)
経済の概念に対する誤解がいくつもある。たとえば、世界市場で競争している産業の生産性は、貿易の対象にならないサービス産業の生産性よりはるかに重要だとプレストウィッツは主張している。輸出産業の賃金によって、経済全体の賃金水準が決まるのがその理由だという。たとえば、アメリカは第三世界に比べて、製造業労働者の生産性がはるかに高いので、アメリカの理容師も、生産性の面でそこまで優位に立ってるわけではないが、高賃金を得られるという。
先進国の床屋が途上国の床屋より何倍も稼ぐのは、先進国の世界市場で競争してる製造業が生産性を大幅に押し上げ、それがさほど生産的でもない床屋に、ずっと高い賃金水準をもたらす、と言うのは誤解か。
この誤解って、一向になくならないよな。
マクロ経済学って、難しいね。
しかし、プレストウィッツは、逆の関係も成り立つことに気が付いていない。サービス業の生産性は、製造業労働者の実質賃金に影響をあたえているのだ。アメリカの製造業の生産性は高いが、理髪業の生産性はそれほど高くないため、高賃金の理容師がはたらくアメリカの理髪店では、第三世界の理髪店に比べて、散髪代がはるかに高くなっている。この結果アメリカの製造業労働者の実質賃金(つまり散髪も含めて、どれだけの財とサービスを購入できるかという基準で見た賃金)はアメリカの理髪業の生産性がもっと高かった場合より低く抑えられる。注意深く考えていけば、実質賃金は経済全体の生産性によって決まることが分かるはずだ。製造業の生産性、あるいは貿易の対象になる産業全体の生産性を特別に扱って、他の産業の生産性以上に注目すべきだとも、支援策をとるべきだとも言えないはずである。
伊勢田 哲治 (著
入門書としても読めると同時に専門書としても一定のレベルを保っています。今まで提案された科学哲学のテーゼをとりあげ、これを実際に存在する疑似科学と科学の判定に有効か否かということで検証する、といった議論の進め方で話が進んでいきます。著者が言うように、可能な限り専門知識なしに読めるように工夫されています。
またこうした入門書としての気配りがあると同時に、専門書として一定のレベルを保っています。私はこの手の本を何冊か読んだのですが、ポパーとクーンの関係が今ひとつすっきりと理解できませんでした。しかし、この本のおかげでこの2者の長所・短所がずいぶんとすっきり理解できました。
筆者の本書における最終的な提案は,ベイズ主義に基づいて,線を引かずに線引き問題を解決するということなのだが,そこにいたる議論の過程こそ楽しむべし.エキサイティングです.
科学と疑似科学の間が単純な基準では線引きできないとなると,疑似科学と科学の間にグレーゾーンが残るわけだが,かといって,明確に科学的な分野や明確に非科学的な分野が存在する可能性は排除できず,様々な観点から見て,占星術や超能力研究を科学と呼ぶわけにはいかないことは,本書を読めば理解できると思います.科学する人も,占星術などの疑似科学が科学であるとナイーブに信じちゃう人にも,お薦めの1冊です.
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> な なんだってー!! <
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http://www.popxpop.com/archives/2007/03/18.html
1常に上品であれ
誰かの何らかの振る舞いに嫌悪感を抱いたとしても、それと同じレベルまで自分を下げることはありません。「自分の方が人間ができている」という風に常に振舞うように意識しましょう。
2悪口を言わないようにしよう
人の悪口を言っていると「そういう風にしか自分の考えを表現できないんだ・・・」と思われます。そして何より悪口は下品で無作法なことなのです。
3怒鳴らないようにしよう
あなたが怒鳴ると周りの人々に不快感を与えます。そして「物事をちゃんと説明できないので怒鳴ることしかできない人なのだ」と思われてしまいます。
4平常心を失わないようにしよう
落ち着きをなくすと「自分の感情をコントロールできない人だ」と思われます。そして自分をコントロールできない人は「何もコントロールできない人だ」とも思われます。常に冷静でいましょう(難しいですが努力する価値はあります)。
5じろじろ見ないようにしよう
誰かをじろじろ見るのは、目の暴力です。人を不安な気持ちにさせてはいけません。
6話をさえぎらないようにしよう
誰かが喋っていたら、いくら口を挟みたくても最後まで待ちましょう。話をさえぎる人は社交性のない人だと思われます。
7唾を吐かないようにしよう
多くの人が無意識のうちに唾を吐いています。マナー違反ですし、誰もそのようなものは見たくありません。
8年上を敬おう
そもそも相手が誰であれ、あなたは「自分がそうされたいように人に接する」必要があります。敢えて「年上」とつけたのは、最近の若者は「なんでも知ってるぜ」と考える傾向にあるからです。5年前のことを考えてみてください。今のあなたのほうが賢いでしょう?
9他人の失敗を笑わないようにしよう
「人の失敗を笑う」というのは、もっともひどい振舞いの1つかも知れません。失敗した時に人は注目されたくありません。ましてや笑われたくないのです。
10室内では帽子を取ろう
建物の中に入る時は帽子を必ず取るようにしましょう。また食卓についている間は決して帽子を被ってはいけません。
11皆がそろうまで食べ始めない
皆が食卓に着くまで食事に手をつけてはいけません。些細なことのように思えるかも知れませんが、とても大切なことなのです。
1ドアを開けてあげよう
これはもっとも基本的で、もっとも簡単なルールです。女性が車やレストラン、クラブなどに入る時は常にドアを開けてあげましょう。たくさんのドアがある時は順番に開けていくと良いでしょう。
2上着を着せてあげよう
女性が上着を着るときは手伝ってあげましょう。シンプルですが大切な振舞いです。
3椅子に座るのを手伝おう
女性が椅子に座る時は椅子を引いてあげましょう。そして、彼女が座るタイミングにあわせて優しく椅子を戻してあげましょう。
4女性のために席を空けよう
女性に椅子がなければ自分が立ち上がりましょう。そして、彼女のために自分の席を譲りましょう。
5立ち上がって挨拶をしよう
女性が部屋に入る時や、出ていく時は常に立ちましょう。ただ、最近ではこのルールは緩くなり、女性が入ってくる時に立ち、出ていく時は座ったままの場合もあります。
6手を貸そう
ちょっと親密さが必要ですが、エスコートする時には腕を差し出しましょう。地面が平らでない時や女性がハイヒールを履いている時にはとても大切なマナーです。
7何か必要なものがないかをたずねよう
イベントで女性がいれば「何か飲まれますか?」と聞くようにしましょう。「あなたのことを気遣っているのですよ」という気持ちが伝わるようにしましょう。
http://www.popxpop.com/archives/2007/03/tips.html
1人の良い側面だけを見るようにしよう。「ほかの人があなたを好きになること」と「あなたがほかの人を好きになること」は表裏一体なのです。
2人の名前を覚えるようにしよう。名前を覚えておいてもらえると人は嬉しいものですよ。
3面白いと思ってもらえる人間になろう。人々が面白いと思ってくれるような話ができるようにしよう。そうすれば、あなたの周りに人が集まるでしょう。
4ネガティブな言動をなくそう。人々は意識的であれ無意識的であれネガティブな言動に気づくものです。そしてそれに気づくとあなたの周りから遠ざかってしまうでしょう。
5積極的にほかの人の良い点を褒めよう。人の成功を祝おう。彼ら・彼女らが落ち込んでいる時は共感するようにつとめよう。人は周りから「大切にしてもらっている」と思われたいのです。
6人に力を貸そう。彼ら・彼女ら自身が強くなれるように手助けをしよう。そうすれば彼らはあなたに好意を感じてくれるでしょう。
7自意識過剰にならないようにしよう。もしあなたがほかの人に「自分は何でも知っているのさ」という印象を与えてしまうと、周りの人たちはあなたを敬遠してしまいます。謙虚になりましょう。
8自然体でいきましょう。もしあなたが堅苦しい態度やそっけない態度をとっていれば周りの人は遠くにいってしまうでしょう。
9あなたが認めようと認めまいと、人はほかの人から好かれたい生物だということを自覚しよう。もし「別にほかの人に好かれたくない」という人がいれば、それは正直ではないだけです。人に好かれたいという思いはもっとも深い欲望のうちの1つなのです。人気者になりたい、自分のいいところを喋って欲しい、周りの人に好意を持って欲しい、それらは人間の本能なのです。
ネガティブな事を言って人を遠ざけ、自慢し人を遠ざけ・・・
人はほかの人から好かれたい生物・・・
「ほかの人があなたを好きになること」と「あなたがほかの人を好きになること」は表裏一体
http://www.flickr.com/search/?q=Three+wise+monkeys&m=text
3匹の猿というモチーフ自体は古代エジプトにも見られるもので、シルクロードを経由して中国から伝わったものだという見解がある。
また、『論語』の一節に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿動」(礼にあらざるものを視るなかれ、聴くなかれ、おこなうなかれ)があり、中国ではこんにちでも、妊娠中の女性は胎教の観点から「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は敖言を出さず」という戒めを受ける。朝鮮半島においても、結婚前の女性は「見ても見ぬふり、聞いても聞こえないふりをして、言いたくても言うな」と教育される。
インドのマハトマ・ガンディーは常に三匹の猿の像を身につけ「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたとされており、教科書などに「ガンディーの3猿」が掲載されている。またアメリカ合衆国では教会の日曜学校などで、三猿を用い、猥褻なものを見たり、性的な噂を聴いたり、嘘や卑猥なことを言わないよう諭すことがある。
http://www.medical-tribune.co.jp/kenkou/200207192.html
調べてみたらほとんどは自然に治るらしいが
ペンシルバニア大学の研究結果などで無関係なことが証明されています。
しかしチョコレートを食べてニキビができることは実際のところあります。
チョコレートは高脂肪分食品ですから、摂取しすぎれば皮脂腺から出る油分が多くなり、結果ニキビのできやすい状態になってしまうということになります。
electromagnetic anthropic principle
《物理》電磁人間原理{にんげん げんり}◆物理法則がなぜ現在のようになっているのかに対する答えの一つ。こうなっているからこそ、この問いを発する人間が電荷を持つようになったという原理
gravity anthropic principle
《物理》重力人間原理{にんげん げんり}◆物理法則がなぜ現在のようになっているのかに対する答えの一つ。こうなっているからこそ、この問いを発する人間が質量に応じた力を受けるようになったという原理
strong anthropic principle
《物理》強い人間原理{にんげん げんり}◆物理法則がなぜ現在のようになっているのかに対する答えの一つ。こうなっているからこそ、この問いを発する人間が必然として生まれたという原理
weak anthropic principle
《物理》弱い人間原理{にんげん げんり}◆物理法則がなぜ現在のようになっているのかに対する答えの一つ。こうなっているからこそ、この問いを発する人間が生まれる可能性があったという原理
私たちが真実と考えている事が、理論によって規定されているとすれば、どのようにして真実を哲学の基礎に据えることができるのでしょうか。探求され理解されるのを待っている宇宙が存在すると考えているという意味で、私は実在論者であるといえるかもしれません。すべてが想像の産物であるとする唯我論者の立場は時間の無駄であると考えています。そのような原理に基づいて行動する人はいません。しかし、理論がなければ、宇宙について何が真実であるのか理解できないのです。
そこで今まで単純すぎるとか幼稚であると書かれてきましたが、私は、物理理論とは観測結果を記述するための数学的なモデルに過ぎないという立場をとります。ある理論がよい理論であるのは、すっきりしたモデルであり、広い範囲の観測を記述し、新しい観測結果を予言できる場合です。
それを越えて、その理論が真実に対応しているのかと尋ねることは意味がありません。なぜなら、私たちは真実とは何かを知らないからです。
科学理論をこのようにとらえると、私は概念道具主義者、あるいは実証主義者になるかもしれません。実際その両方で呼ばれてきました。私を実証主義者と呼んだ人たちは、実証主義は時代遅れであると付け加えました。これも軽蔑する事で反論するということのもうひとつの例です。過去の知的流行であったという点では、私は時代遅れかもしれません。
しかし今まで簡単に述べた実証主義的な立場だけが、宇宙を記述して新しい法則と手法を探している人がとりうる立場だと思います。
モデルに依存しない真実の概念が存在しない以上、真実に訴えかけても駄目なのです。
私の意見では、科学哲学者が量子力学や、不確定性原理に対して抱いている困難の根本的な理由は、未だに明らかにされたことのない、モデルに依存しない真実があると信じていることだと思います。
理論物理学の発展に関しては、実験結果よりも論理的首尾一貫性を求める研究こそがより重要な役割を果たしてきました。
また一方では、すっきりした美しい理論が観測結果に合わないと言う理由で捨てられてきました。
しかし、実験だけを基礎にして発展してきたような偉大な理論を私はひとつも知りません。
すべて理論と言うものは、すっきりした矛盾のない数学的なモデルが欲しいと言う欲求から生まれ、発展するのです。
そのようにして出来た理論は予言をしますから、観測によってためすことが出来ます。
もし観測の結果が理論の予言と一致しても、理論を証明する事にはなりません。しかし、その理論は生き残り、また別の予言をします。その予言はまた実験によってためされるのです。もしその観測が予言と一致しなかったら、その理論をあきらめる事になります。どちらかと言うと、いつかはこうなると思われているものです。しかし実際には、多くの時間と努力を注いだ理論をあきらめることはとても辛いことなので、通常は観測の精度を問題にする事から始めます。それでも観測のほうが正しいとなれば、理論を一時しのぎ的に修正しようとします。
最終的には理論は不恰好で、キーキーきしむようなものになってしまいます。すると誰かが、新しい理論を提案して、手におえなかった観測結果をすっきりと自然な形ですべて説明してしまいます。
人は未来もずっとここにいることはできず、この惑星の表面から消えることは避けられないが、その惑星も死ぬ運命にある。人の労働や悲しみや喜びや希望など、はかない現象の記憶を保持する意識も生き残りえず、やがて人類のわずかな証拠も地球の表面から消されるだろう――まるでそれは最初から存在しなかったかのように。
http://anond.hatelabo.jp/20090116090907
100億年すれば、宇宙は消滅する。だから、生きていることに意味はない。
何をしたところで、100億年してしまえば、宇宙自体が消滅してしまう。
その時には、自分がいたことを、覚えている人もいない(いなくなってしまう)し、自分が残したすべての足跡は、すべて、跡形もなく消えてしまう。
なのに、勉強するだとか、人を助けるとか、必死に生きるとか、そういう、世の中で「意味がある」とみなされていることに、何の意味があるのだろうか?
「100億年すれば、宇宙は消滅してしまう」