私を見て少し微笑んだように見えた次の瞬間、猪熊は「今ならできる!」という低い叫び声とともに机上の脇差を取り上げ一気に首に突き込んだ。
瞬間、卓上の鏡に血が数滴飛んだ……。
最初の一突きの瞬間、突き刺す位置を確認するために卓上に置いた鏡に、血が数滴飛んだことを鮮明に思い出す。だが、さすがに猪熊の太い首はひと突きでは切れなかった。
猪熊は「切れない」と言ってもう一度刀を喉元に突きたてた。
「切れるっ」
私も大声を出した。あれだけ念入りに研いだ刀が切れないはずはないとの思いであった。今度は首の半分くらいまで突き刺せたように見えた。しかしこれでもまだ十分ではない。
「まだまだっ、切れてないっ!」
(中略)
今度は切っ先がうなじに突き抜けた。これが三週間近く二人で研究した方法であった。
うなじを突き通し、その突き抜けた刃を、一気に引き下ろす。その時、頸動脈が切れるはずだった。
そしてその血潮が社長室の壁面に飾った松前重義の写真を染める――。
ところが、目の前に展開された現実は、ほんの少し狂いがあった。刃はどうやら頸動脈の外側の頚静脈を切ったらしい。血潮は天井に向けて噴き上がらずに、バケツでぶちまけたような大量の血がバーっと床に流れ出した。
頸動脈を切れれば十数秒で失血死するはずだが、頸静脈では時間がかかる。そこで「もう一回っ」と私は叫んだのだが、猪熊は「もういいだろ」とつぶやくように言って、卓上に脇差を戻してソファーの背もたれに頭を預けた。
血は首の傷口からとめどなく流れ出る。
一、二分すると、猪熊は全身に汗をかきワイシャツをビッショリと濡らし、同時に失神した。しばらくすると傷口からは血に混じって空気の泡が出るようになり、ときおりドバっと大量の血が流れ出ることが繰り返された。頭をソファーの背もたれに預けたまま失神したので、いわゆる「気道確保」の状態で呼吸ができたため、静かな室内にゼーゼーという猪熊の息の音だけが響いていた。
私はただ見守り続けるしかやることはなにもない。
妙に冷静に「血液の三分の一を失うと人は死ぬというが、既に二リットルくらいは失血していると思うが……」などと考えていた。
時間は10分、20分と過ぎていく。30分が過ぎてもまだ息は絶えない。
(中略)
やがて45分が過ぎようとする頃、私は初めて椅子から立ち上がって猪熊の腕や額に触れてみた。さすがにもうかなり冷たくなっている。しかし相変わらず息は絶えない。
(中略)
悩んでいるうちに、フッと息が止まった。時計はちょうど8時30分を指していた。
今までの私の人生の中で最も長い50分が過ぎたのだった。
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