原告が令和元年に入ってから、霞が関にメガフォンを持って行って、概要として、この霞が関は偽物で、既に違うことをやっているとか、平成の若者を裏切っている、という趣旨の演説をしているが、これも、いつ頃開始されたか定かではなく、令和元年5月31日頃に、新河岸の堤防でも同じようなことをしている。
この期間の原告の特徴として、体重が53キロしかなく、非常に男または老人じみていて、これを前提とした上で種種の活動をしていたものであるが、丙5号証のケース記録には、この期間の原告の様子について記載しているところが非常に乏しく、この点において魅力がないというほかない。原告のいわゆる、河川敷における、メガフォンによるコンサートも、これが奏功してきたのは、令和2年3月以降であると解され(原告の日記による)る。
前期で説明したとおり、原告の刑務所出所後の行動は、刑務官の長谷川に言われた、書いた物を捨てて男として強くなれ、という命令にほとんど統制されているが、令和元年5月1日以降、インターネットの匿名ダイアリーにおいて、「令和のうちは何もないよ」といった書き込みがあったことから、ここでいう、「令和のうち」というのが、「令和元年のうち」を意味するものかどうかは分からないが、実際に、令和元年のうちは、特に、令和元年5,6,7,8,9,10,11,12月は、それ以外の時期に比較して、特に何もなかったといっても過言ではない。