笹沼は罪刑法定主義は人権を尊重するものとして意味があるので、男権主義的権力に援用される場合は否定すべきだと言っているように思える。
罪刑法定主義は刑を加えるには法律によって明白に規定されていなければならないとしている。
これは刑罰は人権への制約を伴うものなので権力の恣意的適用を許さず、法律によって予め定めておくべきであり、また逆にそれによって行為者はどういった行為が罰せられるか判断し自律的に行動できる。
そのためここから法律はどういった内容であるか判断できるように明白性を要求されている。
抽象的な人物像を具体化した場合に想定されるのはいったい誰であろうか?例えば裁判官、社会の権力層の人物はどうであろうか?
これまで考えられてきた罪刑法定主義上で要求されれう明白性を判断し得る者が上記のような者であった場合、この者たちに男権的権力要素は含まれていないだろうか?
私は違うと思うし、違うと言いたい。
だからもし「罪刑法定主義」で想定される判断主体が男権的権力要素を含んでいた場合、これはその限りで適合解釈されなければならないだろう。