2021-02-01

Twitterでも肩身が狭くなった

Twitter、それは好きなことを好きな時に好きなだけ呟ける自由ツールだった。

しかしここ最近Twitterをしていても気づけば言いたいことを飲み込んでいる自分に気がついた。

Twitterは「類は友を呼ぶ」を具現化したような場所だ。

政治批判をすれば政治批判をしている人物が集まってくるし、オタ活をしていれば同ジャンルオタクがホイホイされてくる。

そしてこれは人格にも同じことが言えて、口調が荒い人のもとには口調が荒い人がやってくるし、ネガティブ思考者のもとには、やはりネガティブ発言の多い人がやってくる。

私はどちらかと言えば、悪口を平気な顔で言う人や、ネガティブ発言を繰り返す人は苦手だ。

それよりは穏やかな口調で、建設的な話ができる人と話したい。そういう人らと繋がっていたい。

一方で私には、時折、罵詈雑言を吐きたくなるときもあるのだ。

それは自分でも間違っているとわかっている、逆恨みに近いような激しい怒りの感情

翌日になって頭を冷やせば、あのときの私はなぜあのようなことを……と後悔が押し寄せるような汚い言葉の数々。

それらを吐きたい。ぶつけたい。その言葉相手を殴りたい。

だが、Twitterではそれができなくなってしまった。

それはなぜか。簡単な話、私は普段は穏やかな投稿を心がけているからだ。

アカウントも既に3年近く使っているもので、それなりに仲の良いフォロワーもいる。

そういう人たちからどう思われるかを考えると、どれだけ心が荒んでいても、グッと言葉を飲み込んでしまう。

結果として、私の激しい感情の高ぶりは、変にくすぶったまま心のうちに留まることとなる。

なら別のアカウントを作って、鍵をかけて愚痴垢にでもすれば良いではないか、と思う人もいることだろう。

でもそれは違う。ぜんぜん違うのだ。

私はこのクソッタレ感情を「誰かにぶつけたい」のだ。

そして欲を言うのならば、私の言葉で誰かを傷つけたい。

私の言葉が刺さったまま、もやもやした一日を送ってほしい。

こんな感情が許される場所は、恐らくない。

人を傷つけて許される場所などないし、さらゴミみたいな発言を重ねると、私は傷つきたくない。

私はこれまで悪意の有無に関わらず、多くの人の言葉で傷ついて生きてきた。

これは別に私だけでなく、多くの人がどこかのタイミングで誰かの言葉に傷ついて生きてきたと思う。

から次は私が、人を傷つけたい。散々傷ついてきた分、次はお前が傷をつけられる番だと。

p.s. 罵詈雑言の読み方が分からなくてググった。すとろべり

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん