オタクのシステムは漫画オタク、アニメオタク、アイドルオタクのように「なんたらオタク」とすることで対象を指定する仕組みだ。
そして、その「なんたら」には価値のある対象が入るシステムとなっている。
だが、そのなんたらはオタク以外の何かであってオタク自身にはならないわけだ。
つまりオタク自身がオタクに価値がないと自ずから表明していることになるんだ。
他人から「お前に価値がない」と言われるのでなく自分自身で「私には価値がない」と証明しているんだよ。
自分の好きな行動と自分のしている行動が結びついているから自己肯定に、なるんだ。
オタクであり続けるということは、日常的に自己否定感を育てていっているのと同義である。
最近では、オタク界隈もその構造上の欠陥に気づいたようで必死でオタクの生態とやらをアピールしてる。
でも、原理的に無理だよね。
オタクをモチーフとした創作において、作中のオタクはオタク・オタクではないのだから。
つまりオタクモチーフ作品の作中のオタクはオタク・オタクではなく漫画オタク、アニメオタク、アイドルオタクなどである。
では仮に作中のオタクもオタクを対象としたオタク・オタクだとする。
この記事の中に一箇所、オタクをオククって書いてるぞ。
この引っかけのためにわざわざ長文書いてご苦労さんだにゃあ🐈
全部ファンに置き換えてみたら?
増田は増田オタク?増田プレイヤー?
いや増田民は増田に価値があるとは思ってないでしょ。ただ増田がそこにあることで増田は増田で在るだけ。
オタクオタクが現れた オタクオタクのオタクらしいオタク評である