すごく頑張って自分は過去ときっぱり決別し、変わったかのように書いている。しかし実際は、表面上のことしか変わってないし、本質はきっとこじらせたまんまなんだと思う。
いまだにわがままで人を困らせる。迷惑をかける。遅刻をする。傷つける。失敗しなくなったわけじゃない。
それなのに努力の末、ずいぶんましになったことをアピールしたがっている。
見てよ、がんばったよ、ほめてよ、そんな気持ちが空回りしている。
いま私が思うことは、それでもやっていくしかないってことだ。
生活は何が起こっても続いていく。
「いつか悲しみで胸がいっぱいでも oh baby ラブリー 続いていくのさ Days」
オザケンはそう歌う。
いかに「生活」していくか…「生活」のアベレージを上げていくか……
それに尽きるのだ。
感情に振り回されてなにかをおろそかにしないためには、「遠心的」になること。
「星座から遠く離れていって 景色が変わらなくなるなら ねえほんとうは何かほんとうがあるはず」
追求するということは、求心的。しかし、「ほんとうがあるはず」なのは、きっと遠心的になっていくとき、ではないか。
自分がどのように良くなるかとか、発達障害であるとか、クズすぎて自己嫌悪だとか。もうそんなことから離れる。おいておく。
そして生活に集中する。こうしていくうちに、自転車がこげるようになる。たくさん転んで、もう無理って思っても、あるひ自転車は乗れるようになる。
ただ、調子に乗ってスピードをあげても事故を起こす。事故を回避するために、また遠心的になる。
その繰り返しがきちんとできるような大人でいたい、と私は思う。
ゴミを引用するな