生きている意味が「わからない」という理解不足の現状を終着点として結果とするなら
意味を理解できなかったという意を成す「生きている時間」を過ごしたということだよ
何をどうしたって生きているかぎり時間が経過して生きている意味が無尽蔵に
生産されていくんだよ
いまこの瞬間にも生きているものには生きている意味が積層していってるんだよ
無駄に過ごしたという意味や何か人生以外の成果・成果物生産物ができていったり
いまに意味を成す基礎や素材を集めたり作ったりしているなどの意味が発生しつづけてるんだ
そのうえで自分がなにかの目標をもって完遂することを意味として死ぬときに
これを成したという事を期待したいというなら
その最後に生産されたなにかしらの結果をだれにどこにどのように残したいか考えてみて
なにも形に残らないものを作り上げたいという人生を過ごして死ぬのであればべつにつくらなくてもよいのでは
自分がなにかの意味というのは対外的に確認できる自分の関与した時間の成果物なわけで
なにもかもわからないといいつづけわからないことを体現しわからないということの代名詞になるという
ことで後続にわからないという物理的象徴になるのもいいしなにかわかるように努めるのもいいとおもうし
わかっていることをすることもかならず同じ結果になるとはわからないので知っていくことになるし
わかりきった結果に至ったとしてもそれはそこに至ったということを知ることは想像していた時点とは
異なるもので予想と結果はそれぞれ別ものなのでそれを知るためにあるわけ
明日食べるご飯がなにか判っていたとして今日それを食べるわけでもないし明日たべた感覚を先に予想したところで
今満腹にもならないわけで知っていることわかっていることもその時点で知るとなるようにすごしてるんだ