備忘録として書き留めておく。滅私がどうして奉公と結びついたのか気になったので検索して見た。言い換えると、滅私した故生まれる愛情は他者に向かずに公(上の者)に向かうのか、ということです。
なんのことはない、検索語に引っかかるぐらい当たり前のことで、そのルーツは第一次近衛内閣の国民精神総動員でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/国民精神総動員
鶴見俊輔が「戦時期日本の精神史」で解き明かしたように、現在の道徳観が十五年戦争(満州事変から太平洋戦争終結まで)で形成されたことを考えると、この考え方は未だ持って「他者への愛」に負けているように思える。
かつてはこの考え方が戦後の爆発的な経済成長を助けたとも言えるが、自分自身の生活を防衛するには、そろそろ終わりにしても良いのではないかと思います。公への愛ではなく他者への愛。それがなければ、移民云々といったところで、また新たな抑圧の対象を生むだけです。第二次世界大戦で、よその土地まで行って抑圧の対象を(結果として)確保していた現象が、狭い日本列島の中で繰り広げられ兼ねない。
最初にこの記事をよそに書いたのは上野千鶴子論争の時だったけど、法案が可決されて、ああ、ついにまた、と思いこちらにも書いておきます。ええ、匿名で。