ひとたび便利の味を知ってしまうと、それが人々の心に不便の種を植え付ける。
これまで感じることのなかった不便が、便利の数だけ生まれてくる。
便利化する社会が息苦しさを生んでいる。
自動車の便利さを知ることで、自転車の不便さが重くのしかかってくる。
こういった例はいくらでもある。
エアコンのある生活が当然になると、エアコンのない環境下に不便を感じるようになる。
コンビニのある生活が当然になると、コンビニがない時に不便に感じるようになる。
最新ゲームに慣れると、昔のゲームのシステムに不便を感じるようになる。
この時、便利は人々を幸福にしているだろうか。
便利は消えて、新たな不便が増えているのではないだろうか。
少なくとも現時点で不便を感じられていない領域にまで便利さを求めることは避けるべきだ。
しかし、際限なく便利さを追求するのが資本主義社会であるため、マクロ的には便利化の歯止めを効かせることは不可能だろう。
私たち個人にできることは、不便を当然と思えるように生活することである。
例えば、スマホを使わずに一日過ごすという手軽なものでもいいし、寺で体験修行をするのもいい。
さすれば、当たり前のことにも幸福を見出せるようになるだろう。俺にはできないけどね。