2018-07-23

便利が不便を生んでいる。

ひとたび便利の味を知ってしまうと、それが人々の心に不便の種を植え付ける。

これまで感じることのなかった不便が、便利の数だけ生まれてくる。

便利化する社会が息苦しさを生んでいる。


自転車通勤から自動車通勤に乗り換えた時、人は便利を感じる。

しかし、自転車通勤に戻したとき、そこに不便が生まれる。

自動車の便利さを知ることで、自転車の不便さが重くのしかかってくる。


こういった例はいくらでもある。

エアコンのある生活が当然になると、エアコンのない環境下に不便を感じるようになる。

コンビニのある生活が当然になると、コンビニがない時に不便に感じるようになる。

最新ゲームに慣れると、昔のゲームシステムに不便を感じるようになる。


しかに「便利」は生活を豊かにする。

だが、時間の経過が「便利」を「当然」に変質させ、これまでの「当然」を「不便」にする。

この時、便利は人々を幸福にしているだろうか。

便利は消えて、新たな不便が増えているのではないだろうか。


上記理由から、便利を追求しすぎる社会警鐘を鳴らしたい。

少なくとも現時点で不便を感じられていない領域にまで便利さを求めることは避けるべきだ。

しかし、際限なく便利さを追求するのが資本主義社会であるため、マクロ的には便利化の歯止めを効かせることは不可能だろう。

だが、個人レベルでは便利化への抵抗が十分可能だと考える。

私たち個人にできることは、不便を当然と思えるように生活することである

そのためには不便な生活体験してみるといい。

例えば、スマホを使わずに一日過ごすという手軽なものでもいいし、寺で体験修行をするのもいい。

さすれば、当たり前のことにも幸福を見出せるようになるだろう。俺にはできないけどね。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん