『童貞。をプロデュース』は数年前に観た。
面白かった。
自分は、性犯罪の被害者だけれど、例のシーンで別に何も思わなかった。
犯されて以降の自分は、世の中は、犯す奴と犯される奴で構成されており、それが全てだと思うようになった。
ただ、犯す奴と犯される奴がいるだけだ。
性犯罪のニュースをみかけても、最近は暗い気持ちに少しはなるが、そこに引きずり込まれることはない。
ただ、今回のように、被害者が加害者に立ち向かうような場面をみかけると、本当に無力感に襲われる。
顔の割れている奴に犯されたり、より大きいものに犯された被害者は、被害者界では勝ち組だと思う。
誰だかわからない奴に犯された自分は、他人に気づいてもらうことも、加害者にダメージを与えることもできない。
そこには、ただ犯されたという事実があるだけだ。
だから、大企業でのセクハラ裁判や、従軍慰安婦のニュースなどを見ると、どこの誰だかわからない奴にただ犯された自分は
本当に、ただ他人の欲望を満たすためだけに、犯されるためだけに生まれてきたのではないか
という考えが頭をよぎる。
そんな奴が、人間として生きようとすることに何か意味があるのだろうかと思ってしまう。
そして、欲することが罪であるという考えに陥り、何も欲さず、他人に搾取されるだけの人間生活を送ってしまう。
その繰り返し。
今回みたいなニュースを見ると毎回、そんな考えに人生を乗っ取られた、負け組の自分を突きつけられ、惨めになってくる。
いい加減やめたいが、いつまでたってもまともな人間になれない。
加害者にダメージを与えたところで、被害者の生活が、犯される前に戻ることはない。
性犯罪が多すぎるんだよな。