2017-08-26

童貞。をプロデュース」の騒動みたいなのがあるたびに、いつも頭をもたげてくる犯罪被害者負け組自分

童貞。をプロデュース』は数年前に観た。

面白かった。

自分は、性犯罪被害者だけれど、例のシーンで別に何も思わなかった。

犯されて以降の自分は、世の中は、犯す奴と犯される奴で構成されており、それが全てだと思うようになった。

それが社会で、そこに何らかの感情を抱くことはないのだ。

ただ、犯す奴と犯される奴がいるだけだ。

性犯罪ニュースをみかけても、最近は暗い気持ちに少しはなるが、そこに引きずり込まれることはない。

ただ、今回のように、被害者加害者に立ち向かうような場面をみかけると、本当に無力感に襲われる。

顔の割れている奴に犯されたり、より大きいものに犯された被害者は、被害者界では勝ち組だと思う。

誰だかわからない奴に犯された自分は、他人に気づいてもらうことも、加害者ダメージを与えることもできない。

特に話題にもならない。

そこには、ただ犯されたという事実があるだけだ。

から大企業でのセクハラ裁判や、従軍慰安婦ニュースなどを見ると、どこの誰だかわからない奴にただ犯された自分

本当に、ただ他人欲望を満たすためだけに、犯されるためだけに生まれてきたのではないか

という考えが頭をよぎる。

自分が犯されたことは、社会の何の役にも立っていない。

そんな奴が、人間として生きようとすることに何か意味があるのだろうかと思ってしまう。

そして、欲することが罪であるという考えに陥り、何も欲さず、他人搾取されるだけの人間生活を送ってしまう。

その繰り返し。

今回みたいなニュースを見ると毎回、そんな考えに人生を乗っ取られた、負け組自分を突きつけられ、惨めになってくる。

いい加減やめたいが、いつまでたってもまともな人間になれない。

たとえ勝ち組でも被害者には変わりない。

加害者ダメージを与えたところで、被害者生活が、犯される前に戻ることはない。

から自分と変わらない。

そういう仲間意識を持つことも、負け組発想で申し訳なく思う。

性犯罪が多すぎるんだよな。

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