先日久しぶりに姉の家を訪れたら、姪とその友達が数人遊びに来ていた。
小学生低学年の娘達がリビングで所狭しと遊んでいるわけだが、そのやり取りがなかなか面白かった。
アジア人丸出しな顔立ちの友人たちなのに、名前がみんな横文字なのだ。
ところが姪だけは違う。
姉は何を思ったか米国人と結婚したので、姪は明らかにアジア人とは異なる顔立ちをしているのだ。
その姿が妙に可笑しく感じられてしまった。
姉にそのことを話すと、わたしもそう思っていたといわんばかりに前のめりになった。
もっとイジメとかを気にしていたらしいのだが、むしろ名前の響きが似ているとかで親近感を持って接してくれているらしいとのことだった。
そういう名前をつけるような母親だからか柔軟性も高く、母親同士の付き合いも変に気を使うことがなくてとても楽なのだそうだ。
オリンピックでメダルを獲得した選手たちを見ても名前にカタカナを含む選手が少なくない。
そうした選手たちがメダルを取ったことを漢字だけの名前の選手と同じく誇らしげに報道するキャスター達を見て、時代は変わったのだなぁとしみじみ感じていた。
口でいくら正しさを主張したところで人間の考えはそう簡単に変わるものではない。
世の中や自分の近い位置での環境が変わっていくことで、人は初めてどう生きればいいかを考えるようになるのだ。
まだ彼女たちは差別というものをそれほど意識しない年齢ということもあるのかもしれないが、とても仲良さそうに名前を呼び合う姿を見ていると何だか心があたたまるような気がした。