そして現れた勇者は、魔王退治のために全力を尽くす。村人はそれを応援する。
そして、ついに魔王を倒した勇者を称え、世界が平和になったことを喜ぶ。
だが、その後勇者を村人として迎えるようなことはしないのだ。
強すぎる人間、村のロジックと別の論理を知っている知恵者、そういった者は凡俗の世界には邪魔になるだけなのだ。
ゆえに、勇者は旅に出なければならない。
最近、政治運動をする人間を勇者に、それに関わらない人間を凡俗の村人に例えて考えている。
凡俗は勇者を称え、その気にさせ、散々賞賛し、サポートし、ついに魔王を倒すまでに育て上げ
そして、その成果は凡俗が喰らい勇者を最後には切り捨てるのだ。
その『最後は切り捨てられる勇者』になる覚悟が、あるのか?ってところは問いたくはなる。
あんたらの政治活動は確かにご立派だが、正直成果を出したらもう用済みなのである。
成果さえ出せそうにないピンぼけの活動ならむしろやらないで居て欲しい。
そして『勇者』なのだから、村人を切り捨てることが出来ない。切り捨てたとたん村人の『敵』でしかないからだ。
凡俗の村人に覚悟は要らない。ただ生きていればいい。
そんな人間にまで、己の政治的成果を喰らわせなければならない。
運動家や活動家は、こういった凡俗達を『許せる』のかってのはいつも引っかかっていて。
しかし、それらを「許せない」として改革した社会から切り離そうとすることは、民主主義国家では出来ないものであり。
ほんと、「あんたらどうするんだろうなぁ」と凡俗の立場から見ちゃったりする訳なのだ。
意識高い連中の繰り言をせせら笑い、そいつらの作った成果はしっかりといただき、
生きるために日和見的にすり寄る凡俗。そう言う連中を許せないなら、政治活動なんかやらないで欲しい。
勇者として立ったなら、俺たち凡俗のために戦い、成果を上げて死んでくれ。忘れない限り讃えてやるから。まぁ、忘れるけど。
…そんなささくれた気分になってくるのだ。
右も左も、意識の高い連中ばかりで息が詰まる。
2代目3代目がはびこる美味しいビジネスを勇者に例えられても
(最近の)政治運動をする人間は勇者というより道化にしか見えない。道化みたいな生産性のない人間はいつまでも村にいてもらっても困る。(道化の方が人を楽しませている分、政治活動...