自我がしっかりと芽生え始めて小学校高学年の頃から理不尽な事を憎んでいた。
貧富の差、戦争、虐待、児童ポルノ等、この世から消えて欲しかったし出来るなら自分の手で救い出したいと思っていた。
しかし今はそういった理不尽な事に対し怒りも悲しみも救いたいという気持ちも湧いてこない。
近所に生後数ヶ月の子猫達が居た。2匹の兄弟と思わしきその子猫たちは目やにで目が殆ど開けられていなかったしガリガリに痩せていた。
昔の私だったら早急に餌を上げたり目やにを取ってあげたりしただろう。
お金に余裕があったら病院に連れて行って避妊手術もさせてただろう。(ちなみに当時預金もほぼ空で家賃も滞納するぐらいお金がなかった)
誰かが助けてくれるだろうという期待もあった。
でも日に日に猫は弱っていった。
片方の猫が寝たきりのまま動かなくなったあたりで私はその子猫たちが居る場所へ通うのを辞めた。
「飼えもしない猫を助けるなんて偽善だ」
「自分の事も危ういのに」
周りの人間も助けようとはしていないし、助けるのは間違ってると言う人も少なくはないと思う。
「可哀想だし自分が助けたいのなら助けるのも自由だし、何もしなかった時の悲しみを感じるぐらいなら出来る限りの事をしてもいいのでは」
「この世界から悲しい事を無くすには、自分が悲しまなければ良い」と。
その結論に至った。
この思考は自分の過去のトラウマや心身症を拭う為に、自己暗示してきた考え方だ。
実際にこの思考が自分の中に浸透すればするほど、私は精神が安定してきた。
世の中の理不尽な出来事に悲しみも怒りも覚えなくなった。
その代わり自分が居なくなっていくような虚無感が現れて無気力になる。
この無気力は心地が良い所が危うい。
幸せだから布団の上で1日中何もしないで一生過ごせてしまいそうになる。
次に弱ってる捨て猫を見つけたら助けたいと思う。