結局お見舞いって行為は自己満足にしか過ぎないのかな、と思った。
小中高と同じ学校に通っていた、そこそこ仲がいいと自分が認識している友人、Aがいる。
Aは最近、ひどい病気にかかった。今は小康状態を保っているが、先のことは全く分からないという状況が続いているらしい。
人間生きているならいつかは死ぬし、未来なんて明日のことさえ分からないけれど、そういう話は置いておこう。
Aと自分は、小中と同じ部活に所属していた。高校に入って、それぞれ違う部活に入った。
Aはその部活と、そこで出会った友人らとの間に流れる空気が気に入ったようで、大学に上がって、社会人になってからも、高校時代の部活仲間との付き合いがずっと続いている。
私がいた部活と、Aのいた部活はそれなりに仲が良かったので、交流があった。今でも会って食事をするくらいの仲のヤツもいる。
Aが体調を崩した、という話は、Aの部活の人間で、自分とも仲のいい共通の友人から聞いた。
その少し後、Aの病状が少しだけ良くなって退院してから、たまたま中学時代の友人らが勢ぞろいして飲む機会があった。
Aはその飲み会に参加したけれど、自分の病気のことは一切話さなかった。
そりゃあ、話したくはないだろうし、話せないだろうな。旧友との楽しい飲み会の時に、自分が重い病気にかかっているってことは。
ただ、久しぶりに会ったAの顔色はどことなく白みがかっていたし、常にゆっくりとした所作であったから、みんなそれとなく気づいたかもしれない。
しかし、Aはこの時、中学時代の友人を前に、病気であることを明かさなかった。
自分も、「Aが病気であることを知っている」という事実を、Aに明かさなかった。
少しだけ、Aの高校時代の友人を、恨めしく思った。逆恨みのようなものなんだけどさ。
そのAが、また入院したらしい。高校時代の友人はみんなお見舞いに行ったとのことだ。
自分も行きたいと思った。行って、元気づけられたらと、恥知らずで思い上がりも甚だしいことを願った。
ただ人づてに聞いただけの自分が行っても、何一つ出来やしないのに、ただ行ったという事実に満足する、あるいは後生で後悔しないだけのまじないのようなものに過ぎないんだろう。
たぶん、Aは、本当に心安らげる相手だからこそ、高校時代の友人に病気のことを打ち明けたのだろう。
そこに付き合いの古さなど意味はない。そして自分は、Aにとってそういう友人にはなれなかったのだ。
だから、自分が見舞いに行ったところで、それは自慰のようなもので、Aにとっては何の得にもならない。
そう思い、悲しい気分になる自分を、殴りたい。
お前が悲しむべきところは、そこではないと。