2013-07-27

リア充」のコミュニケーションについて

 いわゆるリア充的なコミュニケーションについて。

リア充」というのも定義曖昧言葉なので、ここでは仮に「学校クラス大学サークルのような、ああいう団体内でのコミュニケーション」という事にする。

で、アレはつまり相互に承認し合って団体への帰属意識や一体感を感じるためのものなのではないか、という事に最近気付いた。

中身がない、と言ってしまうと若干侮蔑的なニュアンスが滲んでしまうが、つまり交わされる言葉の内容よりも、互いに言葉を交わす事それ自体が目的


 動物が互いに毛繕いするような…と例えるとまたなんか侮蔑的になってしまう気がする。でも実際動物的といえるかもしれない。

念の為に言っておくと、奴らは動物的だから下等で、それをやらない人間はより優れているんだとかそういう事を言うつもりは毛頭ない。

話を戻すけれど、これが少人数になるにつれて、より「中身のある」コミュニケーションへとシフトしてゆくのだろうか。

数十人単位の人がいる場で、そんな密度の濃いコミュニケーションをいちいち行うのはほとんど不可能だろうから、実際合理的だ。


 この辺「キャラ」という要素も絡んできそうだ。

誰かがキャラに沿った行動をとり、みんなもそれぞれのキャラに沿った反応を行う。そうやって次々と反応の連鎖が起こり続ける。

キャラとは関係性が刻印された記号云々」と何かの本に書いてあったが、なるほど。

そして、そういう場では、「キャラ」を作れない/作らない、あるいは「キャラ」への適切な反応ができない/やらない人は浮くし、最悪排除されると。


 まあ、私は「キャラを作る」というのが全くできないし分からない人間なのであまり自信がないのだが。

誰か詳しい人がいたら教えてくれ。


 こうやってキャラを絡めて考えると、アレはむしろ記号とかそういうものを駆使した高等テクニックにも見えてくる。

この文脈では、それができない人間の方が劣ってるということになるな。つまり優劣をつけたいのではないという事。


 とにかく、自分がそういった団体に馴染めなかった理由が少しは分かった気がして満足。

まあこんな事当たり前なのであって、自分がバカだからこれまで気付かなかっただけなのかもしれないけれど。

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