2012-01-31

ただしいひとがこわい

< >| 世の中的に誉められるべき正しい人生を送ってる人がいるんですよ。努力によってリターンを得て、実績を積み重ねてるひとな。後ろ指さされるようなことはしていないし、むしろ見習いなさいと言われそうな、勝ち組コースを、平凡に、歩んでいるひとです。
で、このひとが喋る。私はこう思う。声高に正しいことを述べる。但しそのひとにとって正しいと思われることを述べる。
「こう思う」ってさー、「考える」「称する」「批判する」「述べる」なんかよりずっと軽いじゃないですか。で、この軽さゆえに内容について、発言することについて深く省みないまま発言 してらっしゃる
「こう思う」と言うと同時に、「こう思わない」と裏返しの否定を述べてることに気づかないで喋る。

この手の正しいひとは、今まで見てきたほぼ全員が、悪意なく正しいことを述べているので、その正しさがまっすぐで余計なものを一切合財切り飛ばす、すごく狭い範囲しか示さない、まさに指示された「それ」しか含まないことを考えないくさい。
から「こう思う」から外れた、外れただけのものが「正しくない」ものとしてざっくざく切り捨てられてることに気づいてない。
当人の責によらない不幸な事柄まで、止むを得ないを認めずにばっさりやってるのを見ると、視界の狭い正義馬鹿ってこうやって生まれるのかなって思うわけですがそこまではいい。好きにせい。
この、正しい人が、世間的に見習うべき人であるという場合、このひとを尊敬したり信頼したり憧れたりしてるひとはこの否定をまともに食らうでしょ。
相手を正しいと思っていれば「んなわけあるか」と思わず、相手が正しく己が間違ってると思うでしょう。
相手が人としてどうかと思われるような人間であったら異を唱えることも可能だろうけど、むしろ逆であったら、相手の言うことは人間性に裏打ちされた正当性を持っちゃうわけで、しかも相 手>自分だと思ってたら、発言の内容は正しい、言う人間も正しい、ので否定できないの二重苦であら大変。

ただしいひとに「こうすればいい」「ああすればいい」「こうして成功した」の類を口にされたとき、それができなかったら、できない自分無能だと思うだろうな。
そのひととは違う人間で違う環境で、実際のところ同じような問題はあっても同じ問題などないってことを忘れてさ。
あの正しい人が言うことが正しいのだから、間違っているか無能からか、となる。

よっぽど言説について注意深くしてるか、卑怯か、日和見主義で無い限り、つまりほとんどの場合「こう思う」は「こう思わない」を含んでる、反転してることに気づいて欲しい。
その否定に弱い立場のひとが自発的にざっくりやられてるのを見ると、他人についた剃刀の傷みたいでこわい。
正しい人の発言に対して、真正面から傷つくのは、大抵真面目で、自分より目上の人間尊敬する繊細なタイプが多いので、ほんっとうに横で見てるのが嫌だ。

愉快なことに、「こう思う」≒「こう思わない」に気づかない馬鹿と、ご立派な人間の発言に心動かさない汚れ大人と、「それとこれとは話が別」と考える卑怯者は傷つかない。
つうかさ、文章を書いていますー、って声高に言ってる人間が、それでいいのかって思うけどな。
その程度の言葉の扱い方で何を書くって言うんだ。
お偉い人の発言は正しい、つー話といえば、書き手としての価値は作品の価値が決めるのであって、それ以外のどんな要素も関係なくねーか。
まあなんだ、「書き手としての価値」ってなんだっていう話をはじめると泥沼なんだけど。


年上の、社会的にちゃんとした人間に敬意を払えないって終わってんな自分
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