■ただしいひとがこわい
&
lt; &
gt;| 世の中的に誉められるべき正しい
人生を送ってる人がいるんですよ。
努力によってリターンを得て、実績を積み重ねてるひとな。後ろ指さされるようなことはしていないし、むしろ見習いなさいと言われそうな、
勝ち組コースを、平凡に、歩んでいるひとです。
で、このひとが喋る。私はこう思う。声高に正しいことを述べる。但しそのひとにとって正しいと思われることを述べる。
「こう思う」ってさー、「考える」「称する」「批判する」「述べる」なんかよりずっと軽いじゃないですか。で、この軽
さゆえに内容について、発言することについて深く省みないまま発言 してらっ
しゃる。
「こう思う」と言うと同時に、「こう思わない」と裏返しの否定を述べてることに気づかないで喋る。
この手の正しいひとは、今まで見てきたほぼ全員が、悪意なく正しいことを述べているので、その正しさがまっすぐで余計な
ものを一切合財切り飛ばす、すごく狭い範囲
しか示さない、まさに指示された「それ」
しか含まないことを考えないくさい。
だ
から「こう思う」
から外れた、外れただけの
ものが「正しくない」
ものとしてざっくざく切り捨てられてることに気づいてない。
当人の責によらない不幸な事柄まで、止むを得ないを認めずにばっさりやってるのを見ると、視界の狭い
正義馬鹿ってこうやって生まれるのかなって思うわけですがそこまで
はいい。好きにせい。
この、正しい人が、
世間的に見習うべき人
であるという
場合、このひとを
尊敬したり信頼したり憧れたりしてるひとはこの否定をまともに食らうでしょ。
相手を正しいと思っていれば「んなわけあるか」と思
わず、相手が正しく己が間違ってると思うでしょう。
相手が人としてどうかと思われるような
人間であったら異を唱えることも可能だろうけど、むしろ逆であったら、相手の言うことは
人間性に裏打ちされた
正当性を持っちゃうわけで、
しかも相 手>
自分だと思ってたら、発言の内容は正しい、言う
人間も正しい、ので否定できないの二重苦であら大変。
ただしいひとに「こうすればいい」「ああすればいい」「こうして
成功した」の類を口にされた
とき、それができなかったら、できない
自分を
無能だと思うだろうな。
そのひととは違う
人間で違う
環境で、実際のところ同じような問題はあっても同じ問題などないってことを忘れてさ。
あの正しい人が言うことが正しいのだ
から、間違って
いるか無能だ
からか、となる。
よっぽど言説について注意深くしてるか、卑怯か、
日和見主義で無い限り、つ
まりほとんどの
場合「こう思う」は「こう思わない」を含んでる、反転してることに気づいて欲しい。
その否定に弱い
立場のひとが自発的にざっくりやられてるのを見ると、他人についた剃刀の傷みたいでこわい。
正しい人の発言に対して、真正面
から傷つくのは、大抵真面目で、
自分より目上の
人間を
尊敬する繊細な
タイプが多いので、ほんっとうに横で見てるのが嫌だ。
愉快なことに、「こう思う」≒「こう思わない」に気づかない
馬鹿と、ご立派な
人間の発言に心動かさない汚れ大人と、「それとこれとは話が別」と考える卑怯者は傷つかない。
つうかさ、文章を書いてい
ますー、って声高に言ってる
人間が、それでいいのかって思うけどな。
その程度の
言葉の扱い方で何を書くって言うんだ。
お偉い人の発言は正しい、つー話といえば、書き手としての
価値は作品の
価値が決めるのであって、それ以外のどんな要素も関係なくねーか。
まあなんだ、「書き手としての
価値」ってなん
だっていう話をはじめると泥沼なんだけど。
年上の、
社会的にちゃんとした
人間に敬意を払えないって終わってんな
自分。
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