あんまり、僕個人の意見を通したいとも思わないし、議論になってしまうの好きじゃないから、簡潔に僕の感想だけ書くよ。
ふーん、この元増田はこんな意見なんだー、と軽く流してくれたらおkです。
「熱狂の本質」って言葉は「熱狂した原因」って意味じゃないってことにも留意して読んでくれたらうれしいです。
論破しようとかしないでね。
おねがい。
どっちなんだろうね?
文学作品とかで言われるように、読者がいて初めて作品であって、ただのテキストでは盛り上がりってないと思うのです。
そういう意味で、両者があって初めて盛り上がったんだと思ってる。
我々ファンがいなかったら、時間の共有がなかったら、絶対にこんな熱狂は起きなかったし、作品がしょうもなくても起きなかった。
盛り上がり具合と、作品の質のバランスがとれてるか? って点に疑問をはさむ人が多いからアンチと信者が争うのだろうけど、
それは置いておいて、どちらもよかったから盛り上がったのだと思うよ。
これはねー。
増田さんがおっしゃってることに内包されてるけど、
""俺は大半の熱狂には「本質」なんてのはないと思うけどな。ただその時の流行にがっついた結果生まれる共通体験の虚像みたいなもん。""
まさにこの辺がポイントだと思うよ。
「その時の流行にがっついた体験の共有」みたいなものこそが、僕が考える熱狂の本質であって、
それは虚像であって本質ではない、とするなら、その熱狂に本質なんてないんだと思う。
ただ、あの時間を共有したものにとっては、「あの時間」そのものがまさしく、熱狂の本質だったと思うよ。
時間そのものが本質であり虚像であるものって、青春とか、文化祭とか、阪神の優勝とか、(一部の)恋愛とか、似たようなものがあるかもね。
それが虚像だからって、あとから大事じゃなくなるわけじゃない、って点でも。
「違うね。夜中に一人でDVDを観ていたらいてもたってもいられなくなり外に出て走り出す。これが熱狂。増田のはただの思い出づくり。宗教が足りない。僕はシムーンがあればいつだってあと10年戦える。」
ってブクマがついてるけど、これには正直、謝るしかないと思ってる。
だから、本質であり、虚像であり、虚像であっても大事なんだよ。
わかりにくいことばっか言って、お目汚しすいません。
あんま簡潔に書けんかった。
こっちも特に議論する気はない。 ただ「熱狂の本質」とやらの正体を探るというなら、まどかが自己実現の場だった、というのが俺の結論だけどな。 誰でもまどかネタでブログを書け...