2011-02-27

言葉狩りをしてるのは街の善良なオジサン

誰かが「世の中を良くしたい!」と思い立ったとして

知能や気力や時勢読みに優れてる若い人ならば

何かシステムを変革しちゃうほどの大きなことを出来る


あまりビジョンがなく知的に優れていない人が、

それでも「何か世の中を良くしたい!」と思った場合

早起きして近所のゴミいから始めるしかない。

近所のゴミ拾いは地味で、築き上げられていくような成果は無い。

自分の中の慎ましい信仰のようなものがないと続けられない。


人間はどうしても手応えや評価を求める生き物なので

何年もゴミ拾いに徹することが出来るような心栄えの持ち主は少ない。

というときに。

もう少し社会アクセスして

他人に影響や脅威を及ぼし

自分の爪痕が社会認知されるような善行は何かなって考えた時に

言葉狩り」が選択肢として輝いてたに違いない。


人間とは

利潤的な対価を求めない場合でも

面白みの報酬だけは絶対に必要とするように出来てるので

ゴミ拾いより言葉狩りの方が絶対に楽しい

「あれはいけない言葉です」と、世の中に流通してる言葉を整理して仕分けしちゃえる。

その言葉を使ってる人に「無知です差別ですねいけませんね!」と迫って脅かせる。


言葉狩りはどんなに行き過ぎても

元々悪意ではないし利益を求めた物でもない。

やってる本人も自分の胸に聞いて「やましいところなし」と自信を持ってる。だから厄介。


心の対価としてのオモシロ報酬

それをやってる自分と言う存在無意味はないのだと言う保証

これは人間インセンティブとしておっきいにも拘らず

それを懐に入れることについて「疚しさ」を検討する人が少ない。

善意から始まり善意から外れ、なおも自分善意確信し続ける人は

心の報酬存在とその正当性を勘定に入れてないことがほとんど。

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