2010年08月15日の日記

2010-08-15

http://anond.hatelabo.jp/20100815054058

FizzBuzz を知らないのは問題ない。

FizzBuzz仕様を聞いても書けないのが問題とされてます。

http://anond.hatelabo.jp/20100815053852

じゃ、大学生就職できないのは?完全失業率が5%以上もあるのは?これも気のせいか?

http://anond.hatelabo.jp/20100815053044

よーするに情報発信してるかどうかでかなり選別できる気はするのだけど。

少なくとも FizzBuzz が書けないプログラマ誕生することはないよね。

俺、情報発信してたし、見せられる成果物もあったけど、FizzBuzz知らなかったよ。

IT業界にいて10年、プログラム書くようになって4,5年しか経ってないけど。

でも、それで仕事出来てるし、お金給料)も貰ってるからな。

独り言

だから今は不況なんじゃなくて普通なんだってば。

バブルが異常だっただけだってば。

いいかげん不況不況しつこいよ。

http://anond.hatelabo.jp/20100815051734

あんたのやり方に批判するつもりはないし、真っ当な事をしていると思う。

でも、それをやるにはやっぱり「スキル」と「時間」が必要だよね。

零細やITベンチャーのような小規模なら出来ても、それ以上の規模になると大変じゃないか?

面接する人数も多いし、時間もかかるだろ。

http://anond.hatelabo.jp/20100815053044

情報発信している奴を採用するのも良し悪しだけどな。

情報漏洩2ch増田風評被害にあったらかなわん

http://anond.hatelabo.jp/20100815051734

おー

やるところはちゃんとやってるんですね。

作ったもの見せられない人は脱落だと僕も思います。

ちゃんと作ったもの見ればそこまではずれをひくことはないはずなんだ。

http://anond.hatelabo.jp/20100815045844

作ったものの中身をしっかり見るまでもなく

GitHubGoogle Code に何か公開してないか

小規模なものでもいいからOSSプロジェクトに参加したことあるか

自身のブログはあるか

よーするに情報発信してるかどうかでかなり選別できる気はするのだけど。

少なくとも FizzBuzz が書けないプログラマ誕生することはないよね。

プログラミングにしろ絵にしろ文章にしろ音楽にしろ

ものつくりを仕事にしようという人は

情報発信してるのは当然だと思うのですが。

最低でも、「○○出来ますか?作れますか?」ではなく

「作ったものは何ですか」の方が大事だと思うんだけどなー

日本の古い新規一斉採用システムとの相性も悪くて難しいのかな。

http://anond.hatelabo.jp/20100815030331

タイトルしか読んでない俺がプログラマ採用面接について書いてみる。

まず書類選考学歴・職歴・スキル等をチェック。面接したい人を残す。

面接。職歴やスキルについて詳しく聞くと同時に人柄やコミュ力を観察。あとこちらの状況ややって欲しい仕事を説明した上で反応を見て、やる気がどの程度なのか伺う。

「今まで書いたソースで見せられるものがあったら送ってください」と言う。過半数の人が送ってくれる。こない人は脱落。

ソースを1人10分ぐらいかけて見る。

総合して一番良さそうな人から順に2次面接。細かい条件などを話し合って合意すれば採用

これを必要人数分繰り返し、予定人数に達したら終了。

今までだいたいこんな感じでハズレじゃない人材が採れている。

http://anond.hatelabo.jp/20100815030331

君が求める「プログラマ面接」を完璧に行うなら、少なくとも面接官にプログラミングスキルが必要だからな。

デザイナー(絵)の場合、見たらわかるだろ。レイアウトや配色の問題はあるにしても。

でも、プログラム場合はそうじゃない。「言語」と言うだけに、その言語を知らないとわからない。

例えそのプログラムを熟知していた面接官だとしても、プログラマコミュ力ある奴はどのくらいいるだろ?

パソコンと対話するのは得意でも、人の腹の内まで探れる面接官なんてごく少数だろ。

そして作品を見せられてもソースを解析する時間がない。

だから見た目で判断するしかないし、「○○出来ますか?作れますか?」という質問にならざる終えない。

つまり、結論としてプログラマ面接して判断するのは非常に難しいんだよ。

CASSHERN~なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?

 なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?

 単に、紀里谷和明監督への嫉妬か、妬み・嫉み・恨みなのか。

 しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、一発目でいきなりこんな凄い映画を作れてしまう紀里谷監督リアルに天才なのでこれからも凄い映画を作り続けてほしいです!と応援してしまうのである。

 つまり嫉妬の要素というのは、この際、さほど重要ではない。

  CASSHERNは、人間感情の、何かこうクリティカルな部分を直撃する映画なのだ。それゆえに、そのクリティカル・ヒットを受容できる人はハマるし、受容できない人は切れるのだろう。(受容はできるけど、もうこの手の話は飽きた、という人もいるだろう。しかしそのような人は、呆れ果てることはあっても、切れたりはしない)

 CASSHERNクリティカルさというのは、そう、ブライセリフに集約されている。

「つまり、憎しみとは、人間也!」

 さらに、キャシャーンキャシャーンで、「人間が生きていることじたいが、人を傷つけることになる」という意味モノローグを語っている。

人間の性は、悪だ(人間性悪説

人間は、生きていることそれじたいが罪悪だ(原罪論)

 これはキリスト教的な「罪」の論理であり、無神論が主流の日本では受け入れられる余地の少ないテーマといえる。性善説ベースとなっている日本でいきなり「お前の存在じたいが罪だ」といわれれば、切れる人が多いのも当然だろう。しかもこれ、漫画映画である。「敦煌」とか「砂の器」じゃないのである。アニメだよ、キャシャーンだよ。なんで漫画映画で、そんな説教されんといかんねん!という人もたくさんいるはずだ。

 しかも、紀里谷は、これらの作品のテーマを、役者にセリフとして語らせてしまうのである。これがまた、この類のテーマを受容したくない人にとっては、許しがたい行為なのである。セリフで語りさえしなければ、スルーできたはずだからだ。人間は、自分の見たいものしか認識しない。従って、通常、映画を観ていても自我を脅かすようなテーマが提出されても、その部分を認識せずにフィルターをかけて消してしまうことができる。しかし、「言葉」で投げつけられてしまうと、そうはいかない。紀里谷は確信犯的にこの映画を観た全ての人間

「憎しみとは、人間也!」

 というテーマを強制的に植えつけることによって、この映画テーマを曲解される可能性をふさいでいるわけだ。

 このテーマを容認できない人にとっては、監督独善、ということになるのだろう。

 

 さて、この映画は、キリスト教的な救世主の受難を描いている。

 伊勢谷友介が演じる東鉄也は、一度死ぬが、LCLのようでもあり命のワインのようでもある赤いプールに肉体を沈められることにより、再び復活する。この赤いプールの中で行われる復活劇は、あたかもパプテスマのヨハネによる洗礼儀式のようでもある。この復活により、鉄也は自らを救世主キャシャーンと名乗ることになる。もちろん、上月博士三橋達也演じる老医師、鉄也の母みどりの幻影などが、復活した鉄也に「君の復活には、何か意味があるはずだ」「この街を守れるのか」「人々の争いを止めるのです」と、鉄也を救世主の道へと導こうとアシストするわけである。

 しかし、鉄也は救世主キャシャーンとなっても、奇跡を起こすことはできず、人々はみな挫折して死ぬ。そして鉄也自身も傷つき、血まみれとなっていく。鋼鉄の扉の隙間からバラシンに刀で心臓あたりを抉られるシーンは、あたかも十字架にかけられたイエスのごとくだ。

 しかもキャシャーン抽象的に人類の業を贖罪するという存在ではない。鉄也自身が生前、殺人という罪悪を犯しているのだ。「反戦映画」ともうけとられがちなこ映画は、実は、戦争だけに反対している映画ではない。「人間存在そのものが罪だ」というテーマをもっとも端的に表現できる場こそが戦争という極限状態なので、戦場における戦闘の結果としての殺人という光景が何度も繰り返されるのだ。

 最後に鉄也は戦場で犯した自らの罪業を認識して、懺悔する。

 が、この映画の恐ろしいというか念入りなところは、懺悔したはずの鉄也がさらにダメ押しともいうべき父殺しという罪を背負うことである。母親を寝取り、父を殺すというのは、いうまでもなくエディプス・コンプレックスなのだが、鉄也は最終的に父殺しを達成することによって、人類の原罪をことごとく背負って自殺することになる。

 では、鉄也の懺悔無駄だったのか? そう、無駄だったのだ。この映画テーマは「憎しみとは、人間也!」なのだから。従って、鉄也は、キリストの如く原罪を背負って血に塗れ、死んでいくしかないのだ。キリストと違う点は、人類の原罪を肩代わりしたのではなく、自ら原罪を犯して死んでいくという点だけだろう。もちろん鉄也は単なる殺人犯というわけではなく、「戦争」や「愛する人を殺した殺人犯への復讐」といったどうしようもない事情がある。決して、悪意で殺人を犯したわけではない。人間存在そのものが悪なのだから、生きる限り、どうにもならない、どうしようもないのだ…したがって、救世主になるべくして復活させられた鉄也の地獄巡りは、ドアーズ「The End」の如く、母を寝取り、父を殺して完結する。「地獄の黙示録」を参照するまでもなく、フロイトの絶対的な影響下にある現代のキリストは、エディプス・コンプレックスの持ち主でなければならない。フロイトによれば、エディプス・コンプレックスこそが、人類の原罪意識の大本にあるのだから。

 さらに、鉄也の父親・東博士が下層階級の出身であったことも最後に明らかになる。東博士は下層階級出身でありながら、政府側について少数民族を抑圧する側にまわり、最終的には鉄也の最大の敵となる。このあたりも、なにやらイエスキリスト物語を髣髴とさせる。

 だから、キリスト教圏では、この映画日本からやってきた現代の救世主譚として評価されるかもしれない。

 過去に、日本アニメ映画では似たようなテーマが何度も描かれている。いうまでもなく「イデオン」と「エヴァ」がそれだが、エヴァでは、主人公のシンジ救世主となるべく人類の原罪を背負う……という流れの物語だったはずが、最後にシンジ人類の原罪を背負わずに話が途切れてしまった。「エヴァ」は、「人間の性は、悪だ」という自らのテーマに向き合うことができなかったのである。キャシャーンは、エヴァと非常に似た構造映画であるが、主人公の手を父親の血に染めさせることによって、エヴァが途中で放棄したテーマを完結させた作品であるといえる。

 もう一つ、近作で似たような映画がある。それは「マトリックス」だ。この作品は3部作だが、それぞれ救世主ネオ誕生・生・そして死を描いている。ネオもまたキリストの如く、一度死んで復活する。だが、最後には人類の原罪を背負って死ぬ道を選ぶのだ。終盤、ネオは目を焼かれて失明し、エディプス王の如く盲目となる。機械触手に支えられて死んでゆくシーンは、やはり十字架にかけられたイエスを髣髴とさせる。

 ただ、マトリックスは「何も語らない」「観客に考えさせる」というスタイルを貫いたのに対して、キャシャーンは「全てをセリフで語りつくす」「観客に議論の余地を与えない」というまったく逆のスタイルで作られている。このスタイルこそが、一種の押し付けがましさ・説教臭さ・青臭さ・傲慢さと受け取られ、反発される一因になっているのだろうと思う。だが、この説教臭さ、愚直なまでの必死さこそが、かつての邦画ひとつの魅力だったのではないだろうか。邦画黄金時代には、説教映画が多数製作されていた。「新幹線大爆破」の宇津井健のウェットな説教や、「ノストラダムスの大予言」や「人間革命」で丹波哲郎が繰り出す強引極まりないオレ流説教。かつて、日本人はこれらの説教映画で感動して泣いていたはずである。みんな、かつては馬鹿だったのだ。

 80年代以後、邦画から泥臭さが消えていくとともに、邦画の魅力は失われていった。特に、角川春樹逮捕ホイチョイ・プロダクション的なテレビ局誘導の企画映画のブーム化以後は、有能な監督には集客力が無く、大作はどれも質を伴わない、という状況が長らく続いていた。例えば、世界レベルで評価されている黒澤清三池崇史が、「デビルマン」を監督させてもらえないのである。宇多田ヒカルの夫であるということ以外、ほとんど映画界では実績が無く、世間にもあまり知られていなかったPV監督が従来の邦画システムとはまったく無関係なところで突然作り出した「CASSHERN」は、そういう硬直した邦画とりまく閉塞構造をいきなり破壊した作品といえるのだ。

 無論、システムの面だけではなく、愚直なまでに真剣かつ本気というそ姿勢もまた、古くて新しいスタイルではないかと思われる。むしろこちら(熱さ)のほうが重要で、80年代から長らく続いていたシラケ世代は2001年あたりを境に終息しつつあり、70年代を最後に滅んでいたはずの愚直な熱さが求められる時代が復活しているのだ。アントニオ猪木が「馬鹿になれ」というフレーズカリスマ化したのも単にジャイアント馬場がいなくなったからというだけではない(主にプロレスと関係ない人たちに猪木が評価されているのだから。むしろ保守的プロレスファンは旧来のプロレスシステム破壊する存在である猪木を嫌っている。このあたり、CASSHERNの評価とも重なってみえる)。「馬鹿になれ」という熱くて愚かで泥臭い姿勢こそが、閉塞しつつあった日本の気分にマッチしていたのではないか。

 従来なら「大人げのない幼稚な愚直さ」と嘲笑のネタにされるような熱いキャラクターカリスマ化していく作品としては、「最強伝説黒沢」というコミックもある。この漫画の主人公の黒沢は、中学生と本気で決闘するようなどうしようもない中年なのだが、その必死さ、熱さが、周囲の人間(主に、シラケきった若者世代)の心をわしづかみにしていく、というストーリーのようだ。

 すでに我々には、冷笑や嘲笑で生きていけるほどの余裕が無いのだろう。すべてから距離を置き、自我を脅かすものすべてを嘲笑して生きていくライフスタイルは、「勝ち組」「負け組」が明確化されてしまった現代日本ではもう限界なのだ。そうなれば、道は二つ。「感動など、無い」「自分には何の値打ちもない」という悲惨な現状に気づいて、馬鹿になり、泥にまみれて足掻く道。もう一つは、「自分がこうなったのは、すべて、外部に責任がある」と犯人探しの旅に出る道だ。

 僕がCASSHERNを支持するのは、紀里谷監督製作姿勢そのものが、前者の道を示しているからだ。紀里谷の才能を持ってすれば、もっとソツなく、映像美とアクションに徹した娯楽映画を作ることだって可能だったはずだ。だが、あえてこんな熱くて泥臭くて人に嫌がられる映画を作ってしまった。というより、作らざるを得なかったのだろう。その過剰ともいえる熱さが、CASSHERN賛否両論喧々諤々と騒がれる原動力となっていることは疑いない。こんな熱い邦画は、しばらく見なかった。いったい、いつ以来なのだろうか。

 そしてこの映画テーマもまた、後者の道…「犯人探しの旅に出る道」を遮断するべくして設定されている。そして紀里谷は、それでも「犯人探しの旅に出る道」への抜け道を探そうとする人間に、抜け道すら与えない。テーマをそのままセリフとして喋らせることによって。つまり紀里谷にとっては、作品の映画としての完成度よりも、テーマを訴えることのほうが重要だったわけで、紀里谷はここでも熱い。

 このCASSHERNがどうしようもなく発散させている愚直さ、熱さこそが、実は人々に求めらていたのではないか、と思われるのだ。この映画は、冷笑させることを観た人間に許さない出鱈目な熱さを持っている。いやまあ突っ込みどころはあまりにも満載なんですが…あちこち破綻しまくってるし。だが、それだけでは絶対に済まされない映画なのだ。だからこそ、嘲笑で片付けられる人間よりもマジ切れする人間のほうが圧倒的に多いわけなのだ。僕は紀里谷監督に、もっともっと熱い映画を作り倒してもらいたい。僕自身は、熱さは持っていても、作品を作る社会的能力が皆無なので……。

(04/5/1 本田

ニセ科学」「似非科学」という言葉は良くないのかもしれない。

勘違いしている人が多いのだが、科学ではないからニセ科学というわけではない。科学の名を悪用するからニセ科学なのだ。悪用は悪いことであり、どれだけ悪影響があるかは重要なことだ。だからイギリス日本で「変わり」はある。日本運用が変わらなければ変わらないが。

(ちなみに、科学ではないからニセ科学なのではないと言ったが、科学だからニセ科学だとも、ニセ科学だから科学だとも、そうではないとも言っていない。ニセ科学ではないから科学というわけではないと言っているだけである)

悲しいことに、日本では有効な利用法より有害な利用法の方が広まってしまった。そしてホメオパシーは必須なものではない。代替しうるものは沢山あるだろう。そういったものに道を譲っていただきたいが、未だ潰れてはいないようだ。悲しいことに。

普通プログラマ面接どうなってるの

http://anond.hatelabo.jp/20100815024331

初めから育成前提で入社してプログラマを育てているならまだしも

"プログラマ"で入社したはずなのに、プログラミングできないから育てている時点でもうおかしいとよく思う。

それとも、彼らはそれで俺はプログラマだと確固たる自信をもって入社したのだろうか。

だとしたら一体なにを見て学んできたのだろう。

結局、「あなたの作ったものを見せてください」が一番わかりやすいと思うんだけど、どれだけちゃんと評価されてるんだろう?

運転士免許がなければなれない。

プログラマ資格はあてにならない。

学歴もそこまであてにならない。

似た職業デザイナーあたりだ。

デザイナー面接なら、そこらへんの零細事務所のアルバイトでさえもかならず作品持込だ。そもそも選考時点で作品必須だ。

だから線も引けない奴がデザイナーになるなんてことはない。

プログラマだって本来そうであるべきだし、うちはそうしてる(キリッ

といいたいところだけど、自分場合他業種からいきなりIT系ベンチャーにいってしまったので

普通プログラマ面接がどうなってるのかよく知らないんだよな。

http://anond.hatelabo.jp/20100813023359

一番悲しいのは、プログラミングできないプログラマを成長させようと、いろいろ課題を与えたり、OJTをしてみても、成長しないことだ。

そして、そいつらと比べてというレベルGeekハッカーだ天才だの名乗る奴らが跳梁跋扈している。

本当に出来るヤツらが表に出てこない。

なんか、悲しくなる。

日本から全米を圧倒するようなIT企業が出て欲しいよ。Googleを鼻で笑えるようなプログラマー日本からでてこねーかなぁ。

つまんねぇなぁ

http://anond.hatelabo.jp/20100815023420

戦国武将の自刃なんかは別に精神的におかしくないだろ。

至って正常と思われる。

http://anond.hatelabo.jp/20100815015843

別に日本は関係ないさ。

なにも変えることができないのはおまえだ。

http://anond.hatelabo.jp/20100815021121

絶対に見られたくないものだったらそういう扱いをすると思う

だから見てほしかったんじゃないかな

http://anond.hatelabo.jp/20100815011947

彼氏目的彼女と付き合い続けたり同棲したり結婚したりということであれば彼氏目的は達成。

実家に帰したら彼氏目的の達成が困難になるのであれば、

「えー、遠距離とか無理だし。じゃあ、同棲しちゃわね?」という彼氏の提案は妥当。

彼女の「就職が決まらないなんとか決めよう」という目的

彼氏同棲しても就職を探せばいいのだから、達成の可能性はある。

彼女就職してから彼女が他の人に目移りするかもしれない可能性もある。

就職の時点で同棲結婚をしようということは

彼氏側から見ればお互いの将来を考えた前向きで積極的な提案だと思う。

でも、彼女が受けるかどうかはまた別の問題。

受けるとすれば彼氏彼女に対して

「お前の人生ぐらい俺が背負ってやる」

という本気を見せられるかどうかにかかってるんじゃない?

まあ、彼女

物事を解決しない方向に全速力ダッシュしているような提案をする彼氏なんて、

正直がっかりだよね。

このタイプの人だとだめかもしれないけど

友人の家に行ったとき。私に絵を描いて欲しいという話になって、自由帳を借りた。

何も考えずにページをめくると、何枚か絵が描いてある。

一年生おめでとう!みたいに成長を喜ぶ微笑ましい内容だった。

友人自身の思い出のものなのかなと暖かい気持ちで見ていたら、文字が書いてあるページに行き着いた。

友人の堕胎した子供に向けた手紙だった。

途中で気づいてすぐ見るのをやめたが、本当に見てはいけないものを見てしまったと後悔した。

一年生おめでとうというのは産まれていたらの話だった。友人に似ている子供似顔絵は、友人の子供想像図だとわかった。

そのとき本人がいなかったのが幸いのような気がするけど、いたらいたで見なくて済んだと思うと複雑だ。

見てしまった事は本人にも言えず、ものすごい罪悪感を今も感じている。

日本脳死

暴力が「無い」。湧いてくる見込みも無い。

http://anond.hatelabo.jp/20100815014023

イタコ「口寄せ」癒やしに効果…国助成研究

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100814-OYT1T00396.htm

これか。

まあ生きている者は救われるだろうが、イタコでは死んだ者の気持ちはわかるまい。

http://anond.hatelabo.jp/20100815012156

現代における自殺っていうのは、戦中の兵士が自決したり中世日本武士が自ら死を選ぶ様な実用的あるいは形式的で意味のある死ではないでしょ。

ほとんどが「精神的におかしくなって自殺」というケースなんだよ。犬死は止めるのが普通

http://anond.hatelabo.jp/20100815004427

メディアで男叩きがひどすぎるからに決まってるだろうが

しかもフェミファシズム一辺倒で反論は一切許されない

だからせめて匿名メディアで猫を噛んでるのさ

http://anond.hatelabo.jp/20100815003030

というか、他のビジネス本みたいにサクラを用意して褒めまくればいいと思うけど。

上位にあがってるビジネス書サクラが書いてないのってほとんどないぞ。

おかげさまでビジネス書に関してはレビュー価値が半減している。

ノイズが多いから本当の評価を見分けるのが面倒。

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