「国が違う」という事がどうしてこうも人の琴線に触れるのだろうか。
自国以外の民族に良かれ悪しかれ何かしらの感情を持つ。憧れ・羨望・憎悪・疑念・後悔・・・等々。
それは自分の人生に於いて他国(籍)の人との関わりが必ずあるからで、その関わり具合によって思いはそれぞれ種類も度合も
違うからだろう。
「外人」その言葉は自国民以外の人に向けて一様に発せられるものだったが私にとっては憧れをあらわす言葉だった。
「外国の人」自分達とは違う容姿、言葉、習慣、文化。どれをとっても憧れとなった。
「大人になったらいつか外国へ行きたい」友人やTVを見ながら幼いなりに思いを馳せた国は数知れない。
だが、二十歳を迎える頃には自分と対極の意見を持つ人達が圧倒的に多い事を思い知らされた。
「国が違う」「文化が違う」大別するとこうだろうか。だからやめておけ、関わるな、と近しい者が言う。
ショックだった。何故駄目なのかと聞いても納得のいく返答は返ってこない。
「もし将来??の国の人と結婚したとしたら?」一番心を許せる友人に聞いてみた。
「お前の事は好きなままだが結婚した時点で一切の交流を断つ」幾つかの国を例えに出し、最悪の答えがコレだった。
本当に眩暈がした。そこまでなのかと。だが友人は一言つけ加えた「親や親戚や近所の人に散々刷り込まれたからかも」と。
「何でなんだ」「何がいけないんだ」「何がそんなに許されないんだ」
http://anond.ha..telabo.jp/20071117151847
を読んで溜息が出た。同感だ。
「人種への差別心」は人間の紛れもない性なのか。自分と他人の「区別」くらいには降ろせない感情なのか。
数世代続いてきた流れは簡単には変えられないだろう。しかし、流れの中にも流されまいとしている者も思うよりは多いのか
も知れないと思う。
だから、彼の増田よ、運命のせいで憂う事・理不尽な事・多々あるだろうが、こんな風に思う者がいる事を忘れてくれるな。
そして何より大事なのは、増田の周りにいる友人を大切に。一人間として掴める幸せをひとつでも多く手にする努力を怠らな
いでくれ。 皆 同じだと思う。
差別してる人は、それを区別だと思ってるんだよ。 なんだかんだ理由をつけて。
差別と区別は、本質的に変わらない。 異なるものだと考えているのは、お花畑の住民だけ。
本質にこだわって表面をみてない例
れりびー、れりびー、れりびー、れりっびいぃぃぃ んーんーんーーんーんんんーーー、れりっびいぃぃぃいぃいぃいぃぃぃぃぃぃ あほか。
いま南米で働いてる。 友人や初対面の人に職場を打ち明けると、「大変ですね。」って同情されたりするんだよね。 「好きで働いてる」とか、ちょっと控えめに「快適」とか言うと「物...