2024-01-28

トションのコピペ見てから自分ち以外の電気ケトルを使えない。別に菌がどうのという事もないだろうし、単なる気持ち問題なんだけど。

そんな事する奴もそうそういないだろうとは思いつつ、「かもしれない」が無限に増大して穏やかな気持ちでいられない。パノプティコン的というかパラノイアというか。

テロ行為本質は直接的な危害もさることながら、公共空間安全であるという意識を揺るがせる点にあるという話を聞いたことがある。今まではそんな事意識してなかったけど、あんな事があったから今後ももしかしたら……っていう。醤油差しペロペロとかも比喩ではなくテロのものだよなって思う。あれは万が一の実害に警戒するというよりは、「かもしれない」の不快感を植え付けられる程度のものだけど。

まあそんな事言い出せば電気ケトルだけじゃなくてコンビニ弁当ファストフード製造ラインで気がかりな点なんていくらでもあると思う。ネットじゃその手の噂はゴロゴロあるし、研究データみたいなのも出てるんだろうと思う。

でも実際そういうもん食ってて問題あったかって話だし、「かもしれない」に振り回される不合理さは知っているから出来るだけ気にせずにいたい。でも何かの拍子で知ってしまった以上は気にせずにはいられない。

電車椅子だって染み込んだ吐瀉物が残存してるかもしれないし、ガキが汚い靴で踏みつけた直後かとしれない。それでも立ちっ放しはダルいし座りたいから、世間良識への適度な信頼と意識的な忘却を以てして「かもしれない」に蓋をする。

妥協出来るラインボーダーがどこかにあるらしく、電気ケトル我慢出来ないっぽい。高校の頃、トイレハンドソープボトルに尿が詰められる事件があったのがデカい気がする。経験がもたらす実感は理屈を軽く飛び越える。

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