たとえマイナスでも、マイナスを低減しているという感覚を掴めない人が結構いる。
マイナスかプラスか、でしか脳を働かせることができない人が結構いる。
例えば自炊の話が始まると、1日〇〇円で暮らす! とか1ヶ月の食費を〇〇にしましょう! とかの話題はよく目にする。
それはまだいいのだが、そのうち謎のチキンレースやオークションみたくなって「それじゃあ高い」「もっと安上がりにできる」「本当の節約とは!」みたいな論調が出てくる。
はてなだと関内関外日記の一連の野菜摂取料理の投稿に噛みつく人々が出てきたことを記憶に持つ諸賢もいるだろう。
こうしたネット上のやり取りは、議論がある種脱臼を起こしていると感じている。
すなわち、他の手段、例えば同じタイミングで外食したりWoltを頼んだりした場合と比較して、金銭的に低減していたり、健康上より良い食事になっていればそれでいいのではないかと私は考える。
数値の絶対値を競争し始めると、究極には一番貧乏なある一人の人間(の生活)の方法しか正当性がなくなってしまう。
ネットのコピペかから喩えで言うと、石を投げられるのはキリストだけになってしまう。
年収890万円以下は社会のお荷物という意見に対しても、たとえ年収がそれ以下でもマイナスを低減しているという観点は大切だ。
実際に、日本国民の所得の平均値や中央値を見ても890万より遥かに下るだろう。
平均で見るとお荷物の重さを減らすことを、多くの人は頑張っている。
『ケーキの切れない飛行少年』の論理では、犯罪に走ってしまい働けなかった人を適切な指導や教育で賃金を得られる世にしていく大切さが語られる。
これで税金を投与する側から税金を支払う側に変えて、犯罪率の低下だけでなく社会の安定につながると書かれていた。
上か下か、あるいは絶対的な数値だけだと見えない世界があり、ネットの短文の文化ではそうしたバランスや偏差の様なものは捨象されがちであると考えている。
ヤンキー空を飛ぶ 『ケーキの切れない飛行少年』
はてなだと関内関外日記の一連の野菜摂取料理の投稿に噛みつく人々が出てきた まじでか…!? あれすごくよかったじゃん 小麦アレルギーのひがみかよ
アフリカの飢餓に苦しむ子供たち以外は節約失敗だからな どうせ失敗なら好きにやればええねん