2022-01-24

何人か死んで欲しいブクマカがいる。

あえてアカウント名を上げるほどでもない。

もし死んだりしたら「やったぜ」と思うし、じっさいに訃報が伝えられて「ああくたばったかw」程度の感傷に浸ったはてなブロガーもいる。

鬱転でしばらく音信不通だったのが更新再開したりすると「チッ」ともなる。そのままくたばればよかったのに、と。

こういう「死んで欲しいな」「殺したいな」「会ったら殴りつけたいな」「殴るのも汚いかクルマかなんかで地面にアタマ押し付けて殺したいな」という感情は持つけれども、それはネットで発散するものではないと思っている。発散できるものでもないと思っている。

誰が見てるかわからないのにやる? 当事者には見えないように用心するかもしれないけど。

あと「つぶやく」だけで解消される? いいね、とかついても多寡が知れてない?

私には「『死んで欲しい』と吐き出す」のはあまり大事なんじゃなくて、「まさに『死んで欲しい』」と祈念するその気持ちのほうが強いのだと思う。

会ったこともない相手にここまで憎しみを募らせるのも変わっているかもしれない(会わないか想像の中でイラツキ属性が増幅されてますます憎らしくなってるのはあると思う)。

から、呉座騒動はわからない。

呉座の憎悪はそれなりに感じられるが、その憎悪はあのような鍵垢で呟くことで、解消されたのだろうか。

(それでは解消されなかったからこそ、対象にバレて窘められてあんなにヒートアップしたのでは、とも思うが、まったくの想像であり根拠はない。)

(ただスッキリしてれば「(・д・)チッサーセン」くらいのフリをして矛を収めることは出来たんじゃないかと思ってる。)

そういう憎悪を抱くというのは分かる。醜い嫉妬だと思うが、私がそういう感情を抱かないわけではない(しょっちゅう囚われているともいう)。

ただ・・・それを「ネッツでやる」というのはどうしても解せない。

コロナオフライン愚痴り合う、吐き出すというのが難しかったのだろうか?

それにしたってあまりにも杜撰すぎると思う。

呉座が「そういう人間だった」ことにはあまり驚きはなくて人間そんなもんだろと思ってる。

「そういう人間であること」すらも許されないっぽい雰囲気には違和感がある。

呉座の失敗はそれが見えるところでやったことであり、その嫉妬憎悪を抱いたことではないと思っている。

ヘラヘラ笑いながら腹の底で「死ねよ〇〇」というのでは抑えきれなかったのか。

何人か死んで欲しいブクマカが居て、そいつブコメ非表示にもせず、目にするたびに「死ねよ〇〇」と思いながら日々を過ごしているだけに、呉座がわからない。

なぜあれほど素直だったのか。バカだったのか。

なぜ、増田で、壺でやらなかったのか。

私の疑問はそこに尽きる。

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