おれはリバタリアンだけどそういう息苦しい社会は持続可能ではないと思う。
増田が挙げているのは自己責任論というより、自分のもつ特定の思想に反した振る舞いをする人間を罵倒するお墨付きが与えられる社会って感じだ。
本当の自由主義社会は、どんな行いも基本的に(迷惑を掛けない限り)許容され、
それによるどんな類の失敗であっても、ある程度社会がフェイルセーフしようとすることが肯定される社会だ。
増田のと真逆なんだよ。増田モデルは全体主義やファシズムに近い。
そして、自己責任論と結びつけられやすいリバタリアニズムだけれども、
非リバタリアンが想像するリバタリアンは「個人は自分のやることを理性的に判断して行動できる合理的個人である」
と主張して暗に「賢くなれ、さもなきゃ死んで当然」と言わんばかりのマッチョだと捉えられがち。
でもリバタリアンと言われる人の多くはそんなに凝り固まっていない。賢くなることは重要だとは考えるけどね。
だってそうでしょ、人間はつねに合理的行動ができるなんて思っている人はそうそういない。
認知症だから重大事故を起こしてしまった、お前が認知症なのが悪い、
ギャンブル依存だから破滅してしまった、お前がギャンブル依存なのが悪い、
そういった例が100%自分の責任、自分のコントロールの圏内にあったのか、と言われれば誰もが難色を示すだろう。
そもそも情報があふれかえる現代、人は自分の意志で「自己決定」していることなんてあるのか、
「~からの自由」である消極的自由は守られるべきだが、「~する自由」である積極的自由を認めすぎると
衝突にあふれた社会になり、他人を攻撃・制御・統制しようとする邪悪な自由に侵食され、消極的自由が脅かされる。
穏健なリバタリアンは、車を持ったりタバコを吸ったりする自由などほとんどは認めるけれど、
それによりどうなってしまうか、合理的な判断ができるように、越境する前に柵を設置して、注意書きをするんだよ。
そうやって「自分の意志で乗り越えてる」ことを明確に意識させる配慮をした上で「自己責任ですよ」と言う。
もちろん乗り越えて死んでも知らんぷり、というわけでもなく、最低限の救いは用意するし。
理性的な判断可能性をブーストしたうえで(これがリバタリアニズムがITとの親和性が高い理由)の自己責任。
それは、乗り越えて失敗した人を切り捨てる(ザマーミロする)ための自己責任ではなくて、
ん?それリベラリズムちゃうの? (判断力をブーストしたうえでの)自己決定を重んじるっていうのは明らかにリベラリズムだよ リバタリアニズムは個人が自分の意思で自己決定しかた...
今30で別に直撃世代じゃないけど、オバタリアンに空目した つーか世代関係なくなんとなく知ってるワードじゃないんか?