「『くるくるぱーの木』を描きましょう」
先生はにこやかにそう言った。小学校一年生、入学したての頃だった。
「くるくるぱーの木」が何なのか、何を意味するのかの説明はなかった。
自分で想像して、自由に描いてみましょう、ということだった。よく出来た絵には賞をあげます、と先生は付け加えた。
みんな悩んでいた。そんな木は聞いたことがない。
そもそもくるくるぱーってどういう意味?悪い意味じゃないの?それでも賞は欲しかったから、色々必死に考えていた。
私もそのうちの一人だった。そしてふと思いついた。「くるくるぱー」それ自体の意味を描くのではなく、その音を表せばいいのだと。
だけどそのままでは難しい。そこで「くるくる」と「ぱー」の二つに分けた。
そうすると、手を開いた形、つまり「ぱー」の中に、「くるくる」と渦巻き模様が蚊取り線香よろしく描かれている絵が思い浮かんだ。
我ながら妙案だと思った。早速作業に取り掛かった。
まず茶色のクレヨンで、画用紙に大きく幹を、そして枝を描いた。それから黄緑と緑で、「くるくるぱー」をたくさん描いた。木の幹にも別の色で「くるくるぱー」を一つ描いた。
描き終わって離れて見てみると、中々良い物が出来ていた。緑と茶色だから、一見すると普通の木と同じようだが、しかしそうではない。
手の形をした葉っぱは、文字だけ見ると不気味だが、実際には違和感なく、それでいてただの葉っぱとは違った雰囲気を醸し出して枝から生えていた。
ちゃんと「くるくるぱーの木」という題にも添っている。
周りを見渡せば、他の子も順々に出来上がっているようだった。人の顔が付いた木、サイケデリックな色をした木。普通の木を描いている子もいた。
きっと先生は私の絵に賞をくれるだろう、「くるくるぱー」を褒めてくれるだろう。私はそう確信していた。
一週間後、どの絵が賞を貰ったのか発表された。サイケデリックな色の木の絵だった。
すごいね、とみんなは描いた子を褒めていた。私も表ではそう言いながら、心の中ではひどく混乱していた。
先生は私の絵に賞をくれなかった。悔しい気持ちもあったけれど、それ以上に疑問で頭はいっぱいだった。
ただの木を、ピンクだの黄色だの紫だの派手な色で塗っただけの絵が、どうして賞に選ばれるのか。
あの子は大して考えず、さっさと描き終わっていたのに。私の方がもっとたくさん考えて、もっとたくさん工夫したのに!
放課後、みんなが帰ってしまった後に、一人で先生のところに行った。
どうして私の絵は駄目だったの?私が尋ねると、先生は困ったように笑いながら答えてくれた。
「あなたの絵もとっても素晴らしかったわ。誰の絵に賞をあげようか、先生は本当に悩んだのよ。」
私が知りたかったのは、彼女の絵にあって、私の絵になかったもの、それが何なのかだった。私に何が足りなかったのか。どうすればもっと魅力的なのか。
だけど、何度聞いても、先生は曖昧に微笑んで、素晴らしかったわ、と繰り返すだけだった。何一つ教えてくれなかった。
私は悲しくなった。どうして悲しいのかよく分からないけれど、でもとにかく辛くって、だからそのまま逃げるように帰った。
私は先生に、私の絵を認めてほしかったのだ。ただ抽象的に素晴らしいと言うのではなく、具体的に良い点も悪い点も、真っ直ぐ指摘してもらいたかった。
だけど先生は私の絵を、そしてそれにかけた努力を認めなかった。認めることを拒絶した。
成長した今でも、その時のことを夢に見る。私は新しく物事を思いつくのが苦手になった。
もっと言うと、新しく思いついたことを、否定されるのが恐ろしくなった。
斬新な考えなんて滅多に生まれない。
たくさん考えて、たくさん否定されて、そこから新しく学んで、また考えて、そうして一つでも意見が採用されればいい方なのだ。
認められることだけでなく、考え、学ぶことの方にも、いやよりいっそう意義がある。
そう頭の中では分かっていても、それでも恐怖が私を支配している。理由なく拒絶される恐怖。
きっと誰も私の考えを認めてくれはしないのだ。素晴らしかったわ、と言うだけで。
小学校の教師に絵とか文章とかをまともに比較したり批評したりする能力なんてねーから。 「なんとなくこれかな〜」以上の根拠なんてない。
先生に尋ねてはいるけれど自分が絵に込めた意図を説明してはいないだろう。 どれだけ考えても絵にしてしまうと伝わらないこともある。ともするとひとりよがりになりがち。 でも論理...
元々才能がないのを小学校の頃の教師の責任に帰そうとするあたり、ダメな部分が色々と透けて見える。いーかげん自分が生まれながらの凡人であることを認めろよ。