2011-10-02

フジ子・ヘミング冷泉彰彦,そしてわたしの雑感

http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2011/09/post-346.php

フジ子・ヘミングについて冷泉彰彦が書いた文章を「いまさら」見たので,わたしの雑感を書く.

私が聞いた時,彼女調子が悪かったのかもしれないが,彼女の「音」にはまったく感慨を覚えなかった.個人的に感想としては,演奏が始まる前,調律師が調律していた音の方が,よっぽど「ブリリアント」であった.おまえはなぜヨーロッパオーケストラを聞くのか,と問われたら,こう答えるだろう.「音が違うから」と.それだけ,日本オーケストラヨーロッパオーケストラでは,音がちがう.ピアノ演奏はあまり聞いたことがないが,少なくとも一人立体的な音を出している人はしっている.アルゼンチン出身の女性が出していた音は,立体的でたいへん美しかった.

しかに,フジコ演奏を予断なく聴いて感動している人に水を差すようなことはしない.しかし,朝日新聞に出ているような広告をみたり,フジコがそういった過去を持っていることと彼女演奏を結びつけたりといったことが過剰であると見受けられるためにクラシックファンに批判されているのではないか

クラシック音楽解釈するために,人生観そして世界観に絡めて理解するというのは理解できる.しかし,それは立ち現われている音と「わたしの」人生観,「わたしの」世界観を絡めて解釈する行為であって,演奏者個人の来歴はさほど関係ない.演奏者個人の来歴が関係してくるのは,演奏に対しての価値判断が行われる場所においてであろう.つまりフジコ演奏を聴いて,「天涯孤独から演奏に感動するというのはあまりよろしい態度ではないとわたしは思う.よって,「ブレンデル引退コンサート巨匠人生が凝縮されている」とわたしは述べない.「ブレンデルはさすがに引退か」とは思うが,そことは離れた場所で演奏を聴き判断する.そして演奏を判断するためのものとして,「音」「技術」「技巧」というものがあるのである.どんない偉大な経歴であったとしても,その場で聞いてしっくりこなかったのであれば,しっくりこなかった感動したのであれば,感動したと思えばよい.その場所に,「フジコの半生はこんなで」とか「ブレンデルの引退コンサートから人生が云々」という話は関係ないのである.そういった話を引きはなして,演奏を聴かないがためにフジコファンは「耳がない」と馬鹿にされるのである.(フジコの弟が大声でブラボーと曲毎に叫ぶのも興ざめ)

物語を作って,物語の登場人物をステージにのせ,半生を聴衆に回顧させ,お涙頂戴芸をやっているから,フジコは批判される.それにわたしから言わせてもらうと,最初フジコなんぞの演奏を聴いてしまった方がかわいそうである(フジコ演奏をすべて私は否定したいのではない,最初に出したアルバムは良いと思う.その後は練習不足がたたってか,年なのかしらないが全然ダメだと思っている).

ピアノ演奏には,お涙頂戴芸以上に素晴らしい芸術がある.それの根幹となっているのが各人が出す音であるフジコは全くそこができていない(というよりも年で,もうまともな音が出ないのではないか.長年鍛錬してきた他の老ピアニストと違って彼女にはブランクがある).その点からフジコはさっさとお涙頂戴芸をやめるべきだし,フジコ演奏を非難しているのは,頭の固い日本馬鹿クラシックファンだという発言をするのもやめていただきたい.

あとCDだといくらでもごまかせるので,実演聞いて判断するべき.

わたしのおすすめピアニストは,ハンガリー出身でいまはイタリアに住んでるおじさんとか,ルーマニア出身で最近日本演奏に来たのにおなかが痛くなって残念ながら帰ってしまったおじさんとか,アルゼンチン出身で体調不良コンサートキャンセルしてしまったおばあさんとか,もっといろいろいるがこの辺で.

  • さらにいうと「頭の固い専門家とクラシックファンからのバッシング」とか言うものすら、どうも彼女の物語性を盛り上げるために作り上げられてるようにしか見えないんだわ。 あれは...

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