はてなキーワード: 味噌とは
なんだかなー
昨晩の不毛極まりない味噌痔煮喧嘩(ほとんど毎日やってるけど)見てもわかるだろ。口喧嘩なんぞ、はじめた時点でどっちもファビョってるんだから勝利条件の設定がまず間違ってるっつーの。
よって「黙らせる」しかない。
やりかた:相手があきらめて寝るまでオウム返しや詭弁で粘る。負けたことにしなければ負けじゃない。
翌朝にまた反撃してきたら再び開始。永遠にやってきたら永遠に続けろ。
すっっげー馬鹿みたいだけどこれ以外何も無い。実際こうやって延々と続いた糞ツリーもある(さすがにそのうちどちらかが消えていくが)
増田に人の言うことを本当に聞こうとしている奴なんか少ないし、ましてや口喧嘩を仕掛けるような奴は100%自分の満足しか考えていないから続けても益は何もない。
とんこつとかげんこつとか魚介とかでこってりさせてない、
http://anond.hatelabo.jp/20090211000453
こんばんは!
モヤモヤしたり、悲しかったり、そんなときに。
個人的にひっそりやってるブログでもいいかもしれないけれど、インターネットの上で自分の内なる気持ちの日記を書くと、やっぱり人の意見とか、コメントの数とか、少しは気にしてしまし、後で恥ずかしくなって消したりすると思うので、紙のほうがいいと思う。これはきっと、好みの問題です。私は紙のほうが好きだ。
あれですね、簡単に言うと、誰かと話すのもいいけど、自分とも話そう!ということです。
自分と話すのに、書く、という行為はとても有効だと思います。私の場合、とても調子がいいです。人に愚痴を言うのがあまり好きでない、ということもあるんだろうけれど。
自分の気持ちが整理されていくのは、とても気持ちがいい。
誰かと話すのも大切だと思います。外に出かけたり、他愛もない話を友人とすることで、びっくりするくらい心が元気になることも、あるよね!
社会に出てそりゃ学ぶ側から学んでそれを加工してアウトプットして金に変えてくわけだから学生と仕事人とは色々乖離するだろーよ。
んでも感覚だけで人を納得させて、それがビジネスにできるカリスマはほんの一握りであって、大抵は第三者がどうすれば納得するか必死に考えて、そのツールとして推計学の知識から信憑性と可能性を数字で示したりするんじゃね?
自分であれこれ工夫したやり方が実は●●学の●●理論だったとかであれば、その発明力を褒めてよいかもしれないけど、仕事の出来る出来ないとかプロダクティビティに長けたやり方が出来るって、やっぱ基本的な数学・物理・国語とかにその味噌があるんだと思う。
それを言い出すなら自民とどっこいどっこいだろう。しかしマスコミフィルターのおかげで一方は糞味噌に言われ、もう一方はそれなりにでかいスキャンダルすら見逃してもらえる。広告税で税収アップを目論む自民の野望を阻止するためだとか、年末解散総選挙の予定を崩されて記事や番組のスケジュールやら混乱させられた意趣返しか、それともぶら下がり記者たちとの人間関係が険悪なのか、要因がどこにいくつあるのか知らんけどさ。
とにかく視聴・購読者は「麻生は何もしていない」の連呼を望んでいるわけじゃない。「なぜ麻生は何も出来ないのか?」「本当に何もしていないのか?」「他の人なら出来るのか?」が欲しい。いちいち自分で調べるのにも限度って物があるし。
OKOK。話は大変よく分かるし筋は通ってると思う。特に誤解はない。
そうすると、あなたと私の立場の違いは、国歌というのはどういう観点から誰が選ぶものなのか、そもそも何のためにあるのか、という点に関する認識の部分だと思う。
以下、三行でまとめ。
・そこで「開き直り」はあり得なくね? (あと最後に大事なこと言った!)
以上終わり。…とりあえず、暇が有れば以下を読んで欲しい。
国民主権の民主主義国家にあって、国歌を選ぶ主体が国民であることはまったく問題がないし(だからこそ国会で国旗国歌法が定められた以上アレが国歌であることを否定はしないけれど)、その際国民でない人には一票を(たとえ間接的であっても)投じることはできない、というのは実際その通りだ。でもそれは純手続き的な意味でそうであるに過ぎないのではないかな。国の「歌」というのは単に象徴として存在するだけではなく、事実様々な場面で歌わされるものでありそれによって国民の自覚を高め団結を強めるための道具であるわけだよね。神棚に飾ってあるだけでなく、事実使う、という。
従ってそれは、大げさに言えば日本という国の国民が持つ「国家観」に関わるものだと思うのだけれど、日本という国は、私の記憶が間違っていなければ、その憲法前文で「国際協調主義」を謳っておるね。
われらは,いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて,政治道徳の法則は,普遍的なものであり,この法則に従ふことは,自国の主権を維持し,他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
我々は日本人として『国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓』っているはずだと思うんだ。その点から見て、
つまり諸外国の認識がヒトラー=天皇であるかどうかは関係ない話では?
国民が納得するかどうかと、諸外国が納得するかどうかというのは違う話ですし、諸外国が納得しないから国歌として不適格ってのも変な話です。
…と、これを「関係ない」で押し切ることが適切かどうか、私は日本という国家の『名誉にかけて』この主張はまずいんではないかと思うがどうだろう。
さらに言うなら、そういう国際協調を憲法で唱える国が、諸外国から旧戦争指導者とみなされる存在を讃える歌(そうじゃないという解釈は所詮詭弁だと思うね。戦前に教育を受けた人で『君』が天皇を指さないと考える人など一人もいないよ。歌を変えないが解釈だけ都合良く切り替わるなんという説は『味噌も糞も同じにする』ようなものだ。)を「国民統合の象徴」として用いる、というのは、はたして日本という国の『名誉』の問題として、どうなのかね。
もちろんこれは、根っこのところでは天皇制を存置したことと同じ問題ではある。そして、私は先に述べたようにそれが「充分にやむを得なかった」とも考えている。昭和20年のあの時点で、占領軍には天皇制を存置する以外の現実的な選択肢は無かったという考え方に説得力を感じるよ。だから日本人と占領軍はいわば「コソコソと」天皇制を続行した。君が代はその余録で残ったようなものだね。確実に言えるが、敗戦時に天皇制が廃止され天皇の戦争責任が追及されていれば「日の丸君が代」は廃止されていたんじゃないかね。その状況なら「過去を振り返るためにこれは残そう」などという案は一顧だにされなかったことは確実だ。(…ただし、天皇を訴追していれば、軍の武装解除は進まず、結果確実に内戦が勃発していたと思うがね。)
そして多分その事情は現在もなお変化が無いんだな。法制化された現時点でもまだ「君が代」は「コソコソと国歌らしい何か」として存在するのが唯一やむを得ない正しいあり方であり、いかなる開き直りの余地もそこには無い、と考える方が妥当だと思う。開き直った瞬間に、確実に二つ三つと戦後日本を貫いてきた論理が破綻するからね。
天皇制を存置させた以上、君が代をおいて別の国歌を作ることもできず、かといって君が代を大手振って歌うことにも矛盾が残り……というダブルバインドから、我々は免れ得ないんじゃないかな。
いずれにせよ、「過去をきちんと振り返る」ということはとても大事だし、戦争を振り返ることはとても大事だ。その発想には同意する。同じ意味で「(押しつけであろうが無かろうがいずれにせよ唯一の存在としての)日本国憲法を愛し守ってきた戦後60年の日本人」の歴史の重みもきちんと振り返るべき時期にきている気がするんだ。