亡き父との思い出を振り返ると、幼い頃のわがままを一度も受け入れてもらえていなかったことに気がついた。
もちろん、聞いてもらえなかったわけではない。
当時は電車が好きだったので何度かつれていってもらった。
帰りの電車に乗ると途端に「目的がないのに電車に乗ろうとするな」と言われた。
次第に電車に乗ることが嫌いになった。
当時人気だったおもちゃをねだるとクリスマスに買ってきてくれた。
貰うときに「おまえ、こんなのが好きなの?変わり者だな」と言われ、家の中では遊ぶたびに同じことを言われすぐにやめてしまった。
ピザがいいと言うと頼んでくれたが、食べながら「おまえは高いモノは遠慮するのに高い食べ物は遠慮しないんだな」と言われた。
オムライスがいいと言うと「子どもっぽいものが好きなんだな」と言われた。
酢豚がいいと言うと「俺が嫌いだから別のものを考えて」と言われた。
じゃあ好きなのを作ってと言ったら「食わせてもらう立場で贅沢な」と言われた。
パスタがいいと言うと「将来おまえは自炊で手抜きするだろうな」と言われた。
その後もたびたび父が用意するタイミングがあったが、なにか言われることに嫌気がさしていたので「なんでもいい」と答える。
すると父は「お前は食にこだわりがないな」と言うのだ。
今になってわかる。
あの人はただ、「思った事を言った」だけなんだろう。
「話す言葉に自分の気持ちしか反映できない人」だったんだろう。
そのタイミングで行動が一度完結してしまい、目の前にいる受け取った相手も一緒に過去のものにしているのだ。
だから、相手の気持ちを考えずに自分が思ったことをすぐに言ってしまう。
「欲しい、食べたい、連れて行って欲しい」
どれもただ欲しいだけではない。
好きだからこそ言ったはずだった。
けれども、それを手に入れたときには「親から否定されたもの」になっている。
当然、振り回されていた父をかわいそうに思う人もいるだろうと思う。
例えば人によっては目的地もなく、ただ電車に乗ることを目的とした外出は理解が難しいと思う。
現に私も今では何が魅力だったのかまったく分からなくなってしまった。
しかしながら、自分は子にわがままを言われるたびに、それを叶えて笑顔になる姿に、愛おしさを感じつい甘やかしてしまう。
その度に心が軋むのだ。
わたしは本当に愛されていたのか、と。
美文
ありがとう