いわゆる「ストロングマン(怪力男)」として列車を引っ張るなどのショーを行い、またプロレスラーとしても活動を始める。
1961年に初来日し、日本プロレスが開催する第3回ワールドリーグ戦に参加、力道山などとも試合を行ったが、単なるイロモノであり実力は無かった。
しかし試合前には子供たちで満員の大型バス4台を引っ張るなどのデモンストレーションを行い、毛むくじゃらの顔、太い鎖、獣のような奇声などといった風貌と合わせて大人気となった。
その人気で増長したのか、ギャラのアップを訴えたり、「俺のおかげで力道山は儲けている」と言いふらしたりするなど、業界の掟を破るような行いが目立ったので、カール・ゴッチらに制裁されてしまった。
1977年に再来日、全盛期のアントニオ猪木と「アントニオ対決」で試合をするが、そこで猪木はブチ切れてプロレスを忘れ、アントニオを一方的に叩きのめしてしまった。
一説によると、アントニオの傍若無人な態度もさりながら、彼は非常に体臭がキツかったので、潔癖症の猪木が激怒したのだ、などとも言う。
二度目の来日も失敗し、そこでアントニオはプロレスラーを廃業した。
金も学もなかったアントニオは、晩年にはカナダのモントリオールでホームレスとなったが、その奇矯な言動が愛されて地元では人気者だったらしい。
2003年に77歳で亡くなった。