俺は男だけど、「差別は必ずしも『悪』なわけではなくその妥当性は議論や対話によって決められるが、自らの無謬性を絶対に守り抜きたい人間とは議論も対話も行うことができない」での議論にちょっと納得できないので書く。
本来、個人がどういうふうに振る舞おうがそれは基本的に自由だ。周囲を警戒しながら夜道を歩こうが鼻歌を歌いながら歩こうが自由であり、女が夜道で男が現れたときにだけ警戒するのもまったくの自由だし、男が道で通りすがりの女の胸に目線をやるのも完全に自由だ。人には好きなように道を歩く自由がある。
それに対して「警戒された!」と男が騒ぐのは、女が「性的に見られた!」と騒ぐのと一緒だ。不毛すぎる。それに何の問題がある。好きに振る舞えばいいだろう。
だいたい、人を警戒することに何の問題があるのか。俺はもちろんカフェでトイレに立つときには財布を持っていくが、それの何がいけないのだろうか。そりゃ、友人とお茶してるときにトイレに行くならいちいち財布は持たない。「あんたは泥棒するかもしれない」と言っているに等しいからだ。しかしそれは礼節の問題であって差別の問題ではない。
男として生きていれば、夜道で女に警戒されたことは何度もある。しかしそんなの気にしなければいい。何度も言うが、個人の私的な振る舞いは自由だからだ。だから俺も気にしない。目的地が同じ方向ならそのまま歩く(速度差があるなら追い越す)し、同じアパートの住人ならこんばんはとか声をかけて開けてくれたオートロックに滑り込む。なんなら同じエレベーターにも便乗する。別にこちらにやましいところはないのだから、堂々としていればいいのだ。
良識あるはてなー諸氏は、それらの行動は女に恐怖を与えるのでやめるべきだ、とはまさか言うまいね。女の恐怖感への配慮を求めるなら、男の傷つきにも配慮したらどうだ?
もちろん、女は男の傷つきになんて配慮する義理はどこにもない。男が女の恐怖感に配慮する必要がどこにもないのと一緒だ。胸を張って堂々と男を傷つければいい。こちらも、女が恐怖しているかどうかとかは特に気にせず歩くので。