私は2○年間生きてきて、何度か自○を試みたことがある。
おそらく小学生くらいの時くらいから、ずっと「この世界から消えていなくなりたい」「生きるのをやめたい」と思ってた。
周りに打ち明けて(当時は皆んなも同じ事を思ってると思ってた)も「そんなこと言わないで」「本当に死ぬ人はそんなこと言わない」としか言われなかった。
だから、だんだん言わなくなった。言わなくなったら気持ちもなくなると思ったがそんなことはなく、スイッチが自分の中にあることに気がついた。
うまくいっている時に突然不安になる。
今までは流せていた些細なことで急に消えたくなる。
「お前なんか死んだ方がいい」と思われてると感じる。
などなど。
何度もやって、その度に生きて帰ってきた。2回くらい、「あ、これは逝けるぞ」と思ったんだけど、その時に帰宅が遅いはずの家族が帰ってきたり、今思えば「まだその時ではない」というお告げのようなことが起きている。
で、生きてるからこれを書けてるんだけど。
著名人が亡くなると、陰謀論だとか、そういうものが定期的に浮上する。見ると皆んな(全員とは言わないが)「○○は死ぬような人じゃない!」みたいな言葉を書き込んでいる。
私はそれを見て、「そう思われるくらいの人だから死んでしまったんじゃないか」と思ってしまう。性格が悪いかもしれないけど。
全てを知ることのできない我々にとって味方となるのは推測や想像である。だから事件として扱うか、事故として扱うか、自○として扱うかも自由だ。
だけど、どうしても「○○な人じゃない!」という言葉にひっかかる。本当にそうなのだろうか? と思うのだ。
私の経験からしか語れないので、また偏りはあるが、スイッチはいつでもどこでも押されるし、楽しみな予定が待っていようが、成功をおさめていようが、なくなることはない。
「自○する人はこういう人」という像に、苦しんだことがある。だから言っても伝わらないとか、そう見られないようにしなきゃとか、いろいろ。スイッチが押されては自分で解決しようとする。そのときには「死」しか見えない。私は運がよかっただけで、家族が帰ってこなかったらぽっくり逝っていたと思う。
自○という事実は重々しいものだけど、自○というのは実は簡単にできてしまう。痛い、怖い、嫌だ、とか、そういう感情はネジが外れたようにぶっ飛ぶのだ。
「○○なはずない!」と信じたい気持ちは分かる。私もどこかで信じたくなる。けどそれを大々的に、あたかもそれが真実かのように語るのはよしておきたい。それが「今死にたい」誰かの心をなかったことにすることにつながる気がするから。
…と書いた私も大概だが。